豊橋市議の長坂です。
今年の夜店が雨が多いです。
さて、先日のこちらブログ。
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ところでぼくが気になったのが、もう1点。
(再掲)
豊橋百科事典でも、
明治42年(1909)6月6日付。
見出しを見ると、トップニュースから
「蚕種購入に就て」「軍隊の家庭主義」「稲苗代の経過」
と時代を感じます。
※以下、ほとんどの旧字を新字に。判読不能字は「◯」で記します。間違いがあればこそっと教えてください。随時修正します。
そして、夜店に関する記事がこちら。

続いて、翌明治42年(1910)6月6日付。

その中でも大手通り(現在、公会堂に続く甘党トキワの前の道)が「夜店の本場」とのこと。
一方、「梅」の文字は見つけられませんでした。
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新朝報の最終面(四面?)には、見てて楽しい当時の広告も。

愛知銀行や長屋病院などは、今でもありますね。
図書館のレファレンスサービス、便利です。
では!
今年の夜店が雨が多いです。
さて、先日のこちらブログ。
ちょっと、夜店の「青梅の市」発祥説については、ちょっと課題とさせてください。調べました。
豊橋の夜店は、なぜ6月なのか? - 愛知豊橋・長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/180530.html
「豊橋市の夜店について」平成30年5月31日付 レファレンスサービスにてお申込みのありました「夜店の起源・発祥が記載された書籍」について以下の通り回答いたします。まず、『豊橋市制施行100周年記念 校区のあゆみ 新川』P11には「明治期の大手通り」として夜店の開催について記載された当時の新聞記事の引用があります。引用された新聞は明治43年6月5日付の新朝報ですが、明治42年6月6日付の新朝報にも「夜の豊橋 玉簾に涼風を呼んで、氷屋の店頭一入の景キを添ゆるの季節となった今日此頃、常市に於ては本月一日より市内各所へ植木、野菜、氷店等の露店が出る事になった、月を踏んで夜涼みに出る客が数々多い。」との記載があり、明治42年の6月には、豊橋市内各所で夜店が開催されていたことが分かります。(これより前の年では、関連記事を見つけることができませんでした。)しかし、平成30年6月2日付の中日新聞では「まつりは1916(大正5)年ごろ、市内の旧東海道沿いで梅の実や木を売る催しとして始まったとされる。」との記載もあり、正確な起源、発祥が分かるものはありませんでした。ただ、前述しました明治42年の新朝報には「大手通り 此レぞ夜店の本場である」との記載が、また、明治43年の新朝報にも「大手通り ・・・流石夜店の本場だけあって・・・」との記載があり、発祥は大手通りであった可能性もあるのではと思われます。いずれにせよ、図書館の蔵書には正確な記述はありませんでした。なお、新朝報は中央図書館のデータベースコーナーで閲覧・複写が可能です。複写は1枚20円です。よろしくお願いいたします。
図書館の優秀な職員が。
レファレンスサービス、本当に便利です。
中日新聞記事については、追加情報もいただき、
レファレンスサービス、本当に便利です。
中日新聞記事については、追加情報もいただき、
うむ。中日新聞豊橋支局に参考文献の有無について確認しましたが、まつり関係者への取材により記事を作成しており、文献を基にはしていないとのことでした。
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ところでぼくが気になったのが、もう1点。
(再掲)
引用された新聞は明治43年6月5日付の新朝報ですが、明治42年6月6日付の新朝報にも「夜の豊橋 玉簾に涼風を呼んで、氷屋の店頭一入の景キを添ゆるの季節となった今日此頃、常市に於ては本月一日より市内各所へ植木、野菜、氷店等の露店が出る事になった、月を踏んで夜涼みに出る客が数々多い。」との記載があり、明治42年の6月には、豊橋市内各所で夜店が開催されていたことが分かります。(これより前の年では、関連記事を見つけることができませんでした。)おや。先日のブログを書くにあたって参照したものではいずれも「大正時代から」と。
豊橋百科事典でも、
レファレンス回答より、夜店 よみせ夜店は、明治45(1912)年開通した新停車場通(広小路)で行われていたが、市内電車が敷設された大正14(1925)年に豊橋市西八町に移った。(豊橋百科事典 http://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm より)
これがうわさの「新朝報」。なお、新朝報は中央図書館のデータベースコーナーで閲覧・複写が可能です。複写は1枚20円です。
明治42年(1909)6月6日付。
見出しを見ると、トップニュースから
「蚕種購入に就て」「軍隊の家庭主義」「稲苗代の経過」
と時代を感じます。
※以下、ほとんどの旧字を新字に。判読不能字は「◯」で記します。間違いがあればこそっと教えてください。随時修正します。
そして、夜店に関する記事がこちら。

夜の豊橋■
玉簾に涼風を呼んで、氷屋の店頭一入(ひとしお)の景気を添ゆる季節となった今日此頃、当市に於ては本月一日より市内各所へ植木、野菜、氷店等の露店が出ることになった、月を踏んで夜涼みに出る客が却々(なかなか)多い。いでや其の景況を記さんに
▲上伝馬通り
場所柄だけに宵の口の人出は大したもの、近郷近在より素見客(ひやかしきゃく)、製糸公女など頻りなしに入り込み来り玉転し、ビーヤホール、氷店等却々の繁盛である、ラッパ節、サノサ、独々逸などが其棲此家(そこここ)の階上階下(うえした)より聞こて太鼓の音喧しく三絃の音湧くが如しである、げにや伝馬は不夜城の名に背かぬ、寿し、氷、人相判断などの露店も五六ヶ所出ている。
▲停車場通り
彌生座の武智一座の演劇が呼び物となりて「入らっしゃい!。」の呼び声と共にゾロゾロと入場る(はいる)見物が可なりある、此通り(このとおり)の両側は悉く魔窟との風評さえある處(ところ)なれば何れの料理店、何れの宿屋にも少くも二人多きは五六人の白首を囮に座らせあれば、泥恋客(でれきゃく?)の押し掛くる者多く別に露店とては無けれど却々の人出である。
▲本町通り
芝居へ行こうか上伝馬へ突撃しようか其れともモウ家へ帰りて就寝もうか(やすもうか)と思案する陳列館辺りは嫖客を以て充満されている、明治銀行前から東の方へかけて植木屋の露店が二ヶ所、氷屋ニヶ所、蛍店(ほたるみせ)一、香具師(やし)一ヶ所と云う具合に数ヶ所の夜店は何れも其れ相應に客を引き付けている。
▲札木通り
西尾銀行前から文海堂前迄の間の雑踏ったらない、「除け除けッ!。」「邪魔だ邪魔だ」「危険い(あぶない)危険い」と警官の制止と荷車引の人除けの声とがガヤガヤと非常なる喧噪を来し居る様、此辺り(このあたり)は繭買いと繭売りと荷車と野次とで蟻の這う隙間もない程の大賑合おである「ええ四両と六〆(かん)、七〆、七〆五百、八〆、オット八貫ッ!。」と相場を競りいる様は、丸で破戸漢(ごろつき?)の喧嘩かと疑はるる許り(ばかり?)だが然し此處(ここ)は流石実業活動の光景を遺憾なく現出している、漸と(やっと)の事にて此所を通り越せば其他(そのた)は何にも見るべき物とてはなく、ただ人通りが賑やかなだけ
▲大手通り
此處ぞ夜店の本場である、ズラリ両側に陣取った露店の数は氷屋五、植木屋八、青物屋五、香具師三短い通りへ是丈(これだけ)の露店が出ているのだから却々盛んだ、ナヨナヨと招く柳の下、煌々と点された(ともされた?)灯火も華やかなもんだ、涼み、素見(ひやかし)の人出は◯々相摩(けんげんあいま)するの賑やかさである
▲関屋通り
此通りも三遠繭問屋初め数多の繭取引所があるから賑やかなもんだ悟真寺側一帯には新緑の香床しい盆栽、夏菊、金魚などの露店が花やかに並んでいる此町はゾメキ(?)客が尠少くて(すくなくて)割合に敢(?)入(みいり?)があると云う事った
▲天王町
緑蔭濃なる(りょくいんこまやかなる?)悟真寺裏一帯へ油煙が漂(?)々(もくもく?)と上る處雑種の露店が賑かに出ている、小間物店もあれば、飴屋も、植木屋も、金魚屋も、餅菓子屋も、氷屋も、易者も出ている、中にて若い豚尾漢の出している一個一銭と云う饅頭店が一番人目を惹いている、有名な玉転の怪美人、此處には出歯薫(?)が人の黒山を築いて喃々たる醜声絶えず非常なる繁昌である
続いて、翌明治42年(1910)6月6日付。

豊橋の夜店=不景気風は何處(どこ)を吹く=まとめると、
玉簾に涼風を呼んで、氷屋の店頭一入(ひとしお)の景気を添ゆる季節となった今日此頃。当市にては本月一日より市内各所へ種々様々の夜店が出る事になった、月はなくも降るような星影を踏んで夜涼に出る老若男女が頗る多い、いでや三日夜の景況を記さんに
▲停車場通り
彌生座の不幸天罰「執念の蛇」が呼び物となって同座の前は一面の人集り、夜風に翻える南無妙法蓮華経の小旗と共に意外の景気である、此前を疆(?)り(かぎり?)て少し行けば右も左も悉く魔窟、厚化粧の白首が婀娜(あま?あだ?)な姿して出歯男共と四邊開(?)はヤ(?)巫山戯(ふざけ?)散らして居るのも夏蟻(?)色。別に露店とて無けれど流石本通り丈けに却々の人出である
▲本町通り
クルリ戻って本町、上伝馬角へ来れば此處はまた一入の賑合い、芝居へ行こうか上伝馬へ突撃しようか其れとも情婦の家へでも遊びに以降か此の儘(このまま)宅へ帰って就寝む(やすむ)のは何だか気がすまぬといった連中が其處にも此其にもウヨウヨして居る、陳列館前に陣取れる何やらの売店は一面の群集で頗(?)ど(ほとんど?)其男の姿さえ見えぬ、其の癖陳列館はカラリと淋しい、北側の出口の附近には丸髷の監守姫が他目介意わずコクリコクリ、本社前から明治、愛知両銀行前へかけては見切り売りの夜店が幾組となく出て、口から出まかせの嬉しがらせを言ってお客を呼んで居る岩田屋前の自動自売は色気の附きかかった若い衆達で占領の体、一銭拗(?)り込でけ小さいコップでああ美味いも罪が無い
▲札木通り
西尾銀行前から文海堂前迄の混雑ったらない「除け除けッ!、」「邪魔だ邪魔だ」「ソラ危険い(あぶない)危険い、」という声が頻りなしに聞えるかと思えば「ァ、三貫、三貫、ァ、三貫五百!、四貫!、」と繭を競り売る呼び声がガヤガヤと目まぐるしい程の喧噪ー、いや何の事ァない平和の戦争丸出しだ、往来は新繭を満載した荷車と往来の野次とで蟻の這う隙間もない程の大雑鬧、一〇、角白の周旋繭問屋など概(?)衣一枚限りとなった後鉢巻の若者が汗水垂して騒ぎ廻って居る、いや暑い事暑い事
▲大手通り
此處は又賑やかい中に新緑渝(?)る(あふれる?)青柳がダラリと地上低く垂れて居るので心持のよい事此上ない、流石夜店の本場丈け(だけ)あって短い町の両側に幾十と一寸数え切れぬ程の露店がズラリ並んでいる、主なるものは氷店、植木屋、青物、香具師、飴屋、活動写真、覗きなどで却々の賑合いだ、招(?)く柳の下、煌々と輝く灯火も華やかなもんである
▲関屋通り
も天野眼科医の前辺りから八丁へ曲る角の辺り迄新緑の香り床しい盆栽、夏菊、金魚などの店で華やかに彩られ、其れ程の人出はないが其れでも三遠繭問屋附近へ行くと新繭の売買で流石実業活動の光景を遺憾なく現出して居る
▲上伝馬通り
場所柄だけに宵の口の人出は却々太したもの、近郷近在よりの素見客、製糸工女など頻りなしに入り替り立ち替り玉転し、ビーヤホール、各妓楼の庭先などギッショ(?)の人集り、陽気なラツバ節、サノサ独々逸、◯唄など◯声と嬌音と相和して此棲其棲(ここそこ)より洩れ聞え三絃の音湧くが如く、寿司、氷店、人相判断など五六の出店ありて不景気の風は何處(どこ)吹くかといった景気である(風)
- 上伝馬通り⇒不夜城・ビーヤホール・製糸工女
- 停車場通り(現在、ときわ通りから松葉公園に通じる斜めの道)⇒芝居(彌生座)・魔窟
- 本町通り⇒陳列館・明治銀行・岩田屋・自動自売
- 札木通り⇒文海堂・繭買い繭売りの競売・蟻の這う隙間もない
- 大手通り⇒「夜店の本場」・青柳・灯火・素見(ひやかし)
- 関屋通り⇒三遠繭問屋・盆栽、夏菊、金魚
- 天王町(今の新本町あたり?)⇒悟真寺裏一帯・油煙・饅頭店
その中でも大手通り(現在、公会堂に続く甘党トキワの前の道)が「夜店の本場」とのこと。
一方、「梅」の文字は見つけられませんでした。
■
新朝報の最終面(四面?)には、見てて楽しい当時の広告も。

愛知銀行や長屋病院などは、今でもありますね。
図書館のレファレンスサービス、便利です。
では!