いよいよ明日から、待ち待った豊橋まつり!

誰が待ってるのかは知らないけれど、「待ちに待った」豊橋まつりなのです。
豊橋も(中心部では)今はおまつり一色です。

そんな中、豊橋駅でこんなパネルを見つけました。
地元学生の作品です。 
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タイトル:まざりたい

祭りにまざりたくても勇気が出せずにまざれない少年を表現しています。「止まれ」の標識はまざれない気持ちを表し、「金魚」と「デメキン」がそんな少年の背中を押して、祭りへの後押しをしてくれています。少年は祭りにまざることができるのでしょうか。
なんというか、これを見たとき、いいなぁ、というか、すっと心が楽になった気がします。



友人が、先日こんなことをブログに書いて、軽やかに炎上しました。
言わずと知れたスポーツの祭典であるオリンピックって、
すんごい矮小化して言えば

「幼少期~思春期に同級生女子の視線を独り占めにしていた、
 一部のフィジカル・エリートたちの集まり・お祭り」

なわけですよね。
バスケ部のAくんや、サッカー部のBくん的な(誰だよ)。

一方で、足が遅いという一点においてのみ虐げられ、
進学と同時にスクールカーストの底辺に配置された文系少年たちは、
そういった連中にものすごい複雑な感情を抱いています。

- 究極の「リア充の祭典」、オリンピックを快く思わない人々のルサンチマン【雑談】
 http://otokitashun.com/blog/daily/8384/
僕も、遠足や修学旅行の班分けというと、手に汗握ったり(いやな汗を)、ドキドキしたり(軽い過呼吸的な意味で)しており、「複雑な感情」を抱いていた方です。



この豊橋まつりに対する気持ちのもやもやを整理するために、少し考えました。
ひとつにはスクールカーストならぬ、コミュニティカーストなるものもあるんじゃないかと。

コミュニティカーストが高い人たちというのは、こんなイメージ。
  • 中心部に住んでいる
  • 長く、代々住んでいる
  • 稼業持ち
僕は、母こそ中心部の出身ですが、父親は市外の出身で、
  • 郊外っ子
  • 父の代からの住まい
  • サラリーマン(の子)
という家庭です。

だから、豊橋まつりには縁遠く、小中学生のときに学校として参加したものを除けば、実は、豊橋まつりに参加するのは、今回がはじめて。 とは言えそれは、議員としての参加なので、ちょっと感じが違うのかなと。 もちろん、これまでも「見に行く」くらいはありましたが。



今日も、同じ郊外っ子と少し話になったのですが、やはり豊橋まつりには、「おらが祭り」感がないんですよ。

小さい頃から僕のご近所でも、「豊橋まつりに参加するかどうか」が、話に上がった記憶はありません。
まだしも、夜店や祇園祭の打ち上げ花火の方が、市民が全体的に想いがあるものなのじゃないのかな。

そうは言っても、市内の他のお祭り、例えば、祇園祭と合わせて豊橋三大祭りと言われる、鬼祭りや羽田祭りに、豊橋まつりのような複雑な心境は抱いていません。 それは、豊橋まつりが、
  • 「豊橋」の名を冠している
  • 実質的に市役所主催
  • 多くが税金で運営されている(数千万単位)
この3点に集約されるのかな、と思います。



と、これまでは分析しているだけでよかったのですが、今は立場が変わりました。

もし、僕のように複雑な思いを抱えている人がそれなりにいるのであれば、多くの税金が使われていることからも、もっと多くの人が「おらが祭り」と思えるものとするのか、あるいはもっとコミュニティに寄ったものとするのか、考えていかないといけませんね。 じっくり観察して来ます。

とは言え、豊橋まつりについて、実質的に効力ある権限はまだまだ何もないので、10年単位の長期的な視点になると思いますが。

では!