最近、というか豊橋に戻ってから、高齢者とか介護のことをよく考えます。 それは、還暦前後の両親が近くにいたり、身近で認知症などに接する機会が増えているからと思います。 たぶん東京で、健康な同年代の友人たちだけと楽しく過ごしていたら、こんなことを考える機会はなかなか気づかなかったでしょう。
■
先日、NHKスペシャルで「老人漂流社会"老後破産"の現実」というのを見ました。
- 老人漂流社会"老後破産"の現実|NHKスペシャル http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0928/index.html
番組中、東京でギリギリの生活を送る老人がこうおっしゃる場面がありました。
「死ねるなら、死にたい」
足が不自由で、自室から出られない別の方は、やることがなく、話相手もおらず、窓から見える木や月とお話して一日を過ごしていました。
いったいこの方たちは、何のために生きているんだろう。
■
祖母が認知症で施設に入っており、たまに行きます。 まだ僕の顔は忘れてないですが、祖母に対しても同じことを考えます。
「同じ質問を繰り返して、自分が今どこにいるかもわからず、おばあちゃんは何のために生きているんだろう」
おばあちゃんがこう言ったことがあります。
「はぁ、情けない。 しんどい。 死にたい」
この「死にたい」って言葉は、孫の僕ですらきつかったので、少しでも認知症が進まないよう、健康でいてほしいと動いている実の子、つまり僕の親にとっては、本当に本当につらい言葉と思います。 僕はおばあちゃんに対して、直接すごく怒った気がします。
■
安易な言葉を使えば、「生きがい」なのですが、たぶん人は、誰か、あるいは、何か、のために自分が生きている、役立っているという実感や見込みがないといけないんじゃないかと。 それは一般的には、仕事や子育てであり、これがぼやっとした言葉だと「社会とのつながり」というやつかと。
ただ、今の制度設計だと、子育てが終わり、定年退職した人たちに対して、社会的な役割を振る仕組みにはなっていない。 むしろ、それらから解放させ、「老後の悠々自適の生活」を目指していた。 それはきっと「老後」がたかだか数年で終わるものだったという当時の平均寿命もあっただろうし、そういう意味では、人生最後のボーナスというか、冥土の土産的なものだったのかもしれない。 ところが、今や「老後」が15年も20年もあると、そういうわけでもなくなってきた。
もう一つ。 「独居老人」なんてものも、ほとんど想定されていなかっただろう。 誰かと誰かがいっしょに暮らしていたら、自然と役割分担が生まれるので、ともに「自分は相手のためになっている」という実感が得られるはず。 それは子ども世帯といっしょに暮らしていたら孫の世話かもしれないし、そうでなくても、ごはんつくるとか、掃除とか、話し相手とか、留守番かもしれない。 何もしてなくても、「もし相手方に何かあったら自分が119番する」とかあるかも。
■
僕が東京にいたころ、よく母とこんな会話してた。
母「(東京大の)あんたの嫁さんになる人なんて、絶対気が強くて、バリバリ仕事する人だから、豊橋には来ないねー」
-僕「うん、だから子どもできたらよろしくねー」
母「冗談でもやめてよ。 もう子育ては終わったの」
ところが最近母から、
「子どもができたら私も面倒見てあげるから(早く結婚しなさい)」
とか言い始めた。 この発言は、今僕が豊橋にいることや、思ってた以上に長く独身でいる僕に不安になり、というのもあると思うけど。
でも実際、あと数年で両親ともに定年になることを考えると、子ども(孫)の役に立つというのは、十二分に親の生きる目的にもなるものと真面目に考え出している自分もいる。
■
なんか本当は、尊厳死とか、国の財政とか、再分配とか、そんなことを書くつもりだったのに、意外と長くなっちゃったら、一旦この辺りにします。
では。
■
先日、NHKスペシャルで「老人漂流社会"老後破産"の現実」というのを見ました。
- 老人漂流社会"老後破産"の現実|NHKスペシャル http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0928/index.html
番組中、東京でギリギリの生活を送る老人がこうおっしゃる場面がありました。
「死ねるなら、死にたい」
足が不自由で、自室から出られない別の方は、やることがなく、話相手もおらず、窓から見える木や月とお話して一日を過ごしていました。
いったいこの方たちは、何のために生きているんだろう。
■
祖母が認知症で施設に入っており、たまに行きます。 まだ僕の顔は忘れてないですが、祖母に対しても同じことを考えます。
「同じ質問を繰り返して、自分が今どこにいるかもわからず、おばあちゃんは何のために生きているんだろう」
おばあちゃんがこう言ったことがあります。
「はぁ、情けない。 しんどい。 死にたい」
この「死にたい」って言葉は、孫の僕ですらきつかったので、少しでも認知症が進まないよう、健康でいてほしいと動いている実の子、つまり僕の親にとっては、本当に本当につらい言葉と思います。 僕はおばあちゃんに対して、直接すごく怒った気がします。
■
安易な言葉を使えば、「生きがい」なのですが、たぶん人は、誰か、あるいは、何か、のために自分が生きている、役立っているという実感や見込みがないといけないんじゃないかと。 それは一般的には、仕事や子育てであり、これがぼやっとした言葉だと「社会とのつながり」というやつかと。
ただ、今の制度設計だと、子育てが終わり、定年退職した人たちに対して、社会的な役割を振る仕組みにはなっていない。 むしろ、それらから解放させ、「老後の悠々自適の生活」を目指していた。 それはきっと「老後」がたかだか数年で終わるものだったという当時の平均寿命もあっただろうし、そういう意味では、人生最後のボーナスというか、冥土の土産的なものだったのかもしれない。 ところが、今や「老後」が15年も20年もあると、そういうわけでもなくなってきた。
もう一つ。 「独居老人」なんてものも、ほとんど想定されていなかっただろう。 誰かと誰かがいっしょに暮らしていたら、自然と役割分担が生まれるので、ともに「自分は相手のためになっている」という実感が得られるはず。 それは子ども世帯といっしょに暮らしていたら孫の世話かもしれないし、そうでなくても、ごはんつくるとか、掃除とか、話し相手とか、留守番かもしれない。 何もしてなくても、「もし相手方に何かあったら自分が119番する」とかあるかも。
■
僕が東京にいたころ、よく母とこんな会話してた。
母「(東京大の)あんたの嫁さんになる人なんて、絶対気が強くて、バリバリ仕事する人だから、豊橋には来ないねー」
-僕「うん、だから子どもできたらよろしくねー」
母「冗談でもやめてよ。 もう子育ては終わったの」
ところが最近母から、
「子どもができたら私も面倒見てあげるから(早く結婚しなさい)」
とか言い始めた。 この発言は、今僕が豊橋にいることや、思ってた以上に長く独身でいる僕に不安になり、というのもあると思うけど。
でも実際、あと数年で両親ともに定年になることを考えると、子ども(孫)の役に立つというのは、十二分に親の生きる目的にもなるものと真面目に考え出している自分もいる。
■
なんか本当は、尊厳死とか、国の財政とか、再分配とか、そんなことを書くつもりだったのに、意外と長くなっちゃったら、一旦この辺りにします。
では。