たかの・やさぶろう(1886~1943)
鷹野弥三郎は,明治19(1886)年8月14日,長野県南佐久郡豊里村(長野県南佐久郡小海町豊里)の鷹野今朝三郎の3男に生まれた。明治40(1907)年,松島十湖翁伝編集主任・遠江(とおとうみ)新聞静岡公報嘱託として浜松に来住した。明治41(1908)年,名古屋新聞社に入社し,豊橋支局長になり,同人雑誌「一隅」を創刊した。当時,「女子文壇」へ投稿を重ね,鷹野弥三郎が中心となっていた「文学同好会」に入会していた岸つぎと結婚した。
大正3(1914)年名古屋新聞社を辞して,東京報知新聞社,同6(17)年時事新報社に入社して,一家は東京に移った。大正12(1923)年,時事新報社を辞す。大正13(1924)年には,「山窩(さんか)の生活」を刊行する。鷹野つぎ(1890~1943)は,大正11(1922)年「処女地」の誌友になる。また小説集「悲しき配分」が刊行される。鷹野弥三郎・つぎはともに結核を罹病し,つぎは昭和18(1943)年3月19日,弥三郎は同18(43)年10月18日,没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
鷹野弥三郎は,明治19(1886)年8月14日,長野県南佐久郡豊里村(長野県南佐久郡小海町豊里)の鷹野今朝三郎の3男に生まれた。明治40(1907)年,松島十湖翁伝編集主任・遠江(とおとうみ)新聞静岡公報嘱託として浜松に来住した。明治41(1908)年,名古屋新聞社に入社し,豊橋支局長になり,同人雑誌「一隅」を創刊した。当時,「女子文壇」へ投稿を重ね,鷹野弥三郎が中心となっていた「文学同好会」に入会していた岸つぎと結婚した。
大正3(1914)年名古屋新聞社を辞して,東京報知新聞社,同6(17)年時事新報社に入社して,一家は東京に移った。大正12(1923)年,時事新報社を辞す。大正13(1924)年には,「山窩(さんか)の生活」を刊行する。鷹野つぎ(1890~1943)は,大正11(1922)年「処女地」の誌友になる。また小説集「悲しき配分」が刊行される。鷹野弥三郎・つぎはともに結核を罹病し,つぎは昭和18(1943)年3月19日,弥三郎は同18(43)年10月18日,没した。
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