たかしばら

 高師原は,豊橋市街地南部の柳生川と梅田川の間に広がる東西約6㎞・南北約4㎞の洪積層の台地である。「たかし」の地名は,平安時代の「倭名類聚鈔」にある「渥美郡高芦(たかし)」によるものとされる。それは,古来から歌にも詠まれてきた。高師原は,南接する天伯原に比べて起伏が少なく,標高は20~35mである。土壌は褐色または黄褐色で,有機質に乏しい。さらに水利の便も悪くて生産性が低く,植生の少ない原野であった。明治18(1885)年に,旧陸軍の演習地として一部が買収された。明治41(1908)年,豊橋に第15師団が設置され,天伯原とともに広く旧陸軍の演習用地となった。

 第2次世界大戦後は,旧陸軍の施設は愛知大学をはじめとして,県立・市立の文教施設や病院・住宅・工場などとなり,600haを超す原野は,昭和20(1945)年11月の開拓事業計画によって高師地区と岩西地区に分けられ,復員軍人・罹災者(りさいしゃ)や北設楽郡豊根村などからの入植者によって開拓された。昭和25(1950)年に,大日本紡績(ユニチカ)が工場進出をした。その後,農地の転用が著しく,住宅や小工場が増え,豊橋南部の住宅地に変容した。

 豊橋市では,昭和42(1967)年に豊橋鉄道渥美線沿線に高師緑地(24.17ha)を開設した。クロマツ群落の中に,青少年広場や馬場などを整備し,生活家庭館を設置した。また,近くに愛知県豊橋勤労福祉会館が建設された。なお,高師原からは「高師小僧」が掘り出される。その出土地として,昭和32(1957)年に,豊橋市西幸(にしみゆき)町の豊橋市立高師台中学校の校庭の一部と浜池公園が愛知県の天然記念物に指定された。

 関連項目 - 高師原・天伯原の開拓

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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