たかしばら・てんぱくばらのかいたく

 高師原・天伯原の開拓は,第2次世界大戦後の深刻な食糧事情を解決するためと戦災・復員・引揚者の就農のために,軍用地4825haを民間へ解放することにより始められた。JR東海道線・豊橋鉄道渥美線・梅田川に囲まれた高師原は,標高20~30mの洪積台地で,梅田川以南の天伯原は高師原より標高が高く,南東端は太平洋にのぞむ標高60m前後の海食崖をなしている。陸軍第15師団設立(明治40年)から第2次世界大戦が終わるまで,陸軍省用地であった。昭和20(1945)年11月6日には,開拓の鍬入式が行われた。

 開拓は当初,高師原台地の西半分約200ha(高師原)の土地に177戸が入植したが,昭和35(1960)年までの,定着者は92戸であった。昭和26(1951)年,大日本紡績(ユニチカ)豊橋工場が建設され,都市化が進行して市街地化した。高師原台地の東半分の約200ha(岩西)には,224戸が入植し,165戸が定着した。この地区には,旧軍人・地元出身者のほか,豊根村分村者が入植した。昭和28(1953)年,豊橋市曙町,同32(57)年,弥生町・西幸(にしみゆき)町・東幸(ひがしみゆき)町の町および字が設定された。

 梅田川以南の天伯原台地の天伯地区(約400ha)には,復員軍人・罹災者など303戸が入植し,170戸が定着した。栄地区(90ha)には66戸入植し,59戸定着した。二川地区(350ha)には218戸入植し,133戸定着した。大清水地区(370ha)には204戸入植し,123戸定着した。野依地区(350ha)には171戸入植し,103戸定着した。昭和37(1962)年,豊橋市天伯町の22字をはじめ東高田町・豊栄町・富士見町,同40(65)年,南大清水町・東大清水町,同42(67)年,若松町の町および字が設定された。開墾地は乏水性で,極強酸性土のため営農に困難を極めて離農者が多かった。入植者は,開拓農業協同組合を組織して解決にあたった。天伯スイカのブランド名で全国の市場から好評を得るようになり,全国的な農業先進地へと変貌している。

 終戦後60年たった今日,高師原はほとんど市街地化し,豊橋南部の住宅地となった。天伯原・大清水地区の大根・白菜・キャベツ・トマト・西瓜などの栽培,養鶏・養豚・肉乳牛飼育,施設園芸は,昭和43(1968)年の豊川用水の通水によって,田原市とともに,日本有数の野菜・花卉(かき)・果実・畜産地域となった。昭和47(1972)年,豊橋市南大清水町元町に愛知県立豊橋南高等学校,同51(76)年,豊橋市天伯町雲雀ケ丘に豊橋技術科学大学が設立されるなど,市街地化の傾向が著しい。

 参考文献 - 愛知県開拓史研究会「愛知県開拓史」

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豊橋市議の長坂です。
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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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