ようまん
養鰻は,天然のウナギの稚魚(シラス)を養鰻池で養殖することである。豊橋市における養鰻は,明治29(1896)年,神野新田の干拓事業とともに,神野新田の三郷付近で奥村八三郎が投餌(なげえさ)による養鰻を行い,企業化をしたのが最初といわれる。浜名湖と並んで三河湾沿岸で養鰻業が盛んな訳は,豊橋地区で盛んに行われた製糸業の副産物としてのドッチ(蚕のサナギ)が餌として容易に得られたことにも関係がある。
大正5(1916)年から同10(21)年に至る5年間に,養鰻池も産額も大幅に増えたため,ウナギの相場が暴落した。その後の養鰻業は,相場の安定化と生産調整を目指し,大正15(1926)年に養鰻会社を設立した。製糸業衰退後は,イワシやサンマ,サバ,ホッケなどの魚類が餌(えさ)に使われた。さらに昭和30年代後半には,栄養のバランスのとれた配合飼料の練餌(ねりえ)へと推移する。養鰻業の飼育技術も高くなり,昭和38(1963)~39(64)年ごろから温室(ビニールハウス)で加温設備を備えた養鰻池が取り入れられた。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
養鰻は,天然のウナギの稚魚(シラス)を養鰻池で養殖することである。豊橋市における養鰻は,明治29(1896)年,神野新田の干拓事業とともに,神野新田の三郷付近で奥村八三郎が投餌(なげえさ)による養鰻を行い,企業化をしたのが最初といわれる。浜名湖と並んで三河湾沿岸で養鰻業が盛んな訳は,豊橋地区で盛んに行われた製糸業の副産物としてのドッチ(蚕のサナギ)が餌として容易に得られたことにも関係がある。
大正5(1916)年から同10(21)年に至る5年間に,養鰻池も産額も大幅に増えたため,ウナギの相場が暴落した。その後の養鰻業は,相場の安定化と生産調整を目指し,大正15(1926)年に養鰻会社を設立した。製糸業衰退後は,イワシやサンマ,サバ,ホッケなどの魚類が餌(えさ)に使われた。さらに昭和30年代後半には,栄養のバランスのとれた配合飼料の練餌(ねりえ)へと推移する。養鰻業の飼育技術も高くなり,昭和38(1963)~39(64)年ごろから温室(ビニールハウス)で加温設備を備えた養鰻池が取り入れられた。
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豊橋市議の長坂です。
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