あくみむら
飽海の地名は,飽海河の渡しとして「類聚三代格」(承和2年)太政官符に現われる。「和名類聚鈔」(承平年間)の渥美郡6郷中の渥美であるとの説もある。しかし,伊勢神宮領の「本神戸廿戸号渥美神戸,新神戸十戸号飽海神戸,新加神戸十戸」の記述などから,渥美郷は田原であるともいう。飽海の文字は河川名のため,「好字」とか「嘉名」を取らなかったものとされる。
永正2(1605)年,牧野古白によって今橋城が豊川(とよがわ)と朝倉川の合流点の河岸段丘上に築かれた。城地の東部は飽海村地で,西部は馬見塚(まみづか)村地であった。そのため飽海村は,牛川村地に若宮村を新開し,一部の人たちは飯村(いむれ)にも移住した。
村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に122石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,豊橋藩領分20石余,神明社領11石余とある(八名郡若宮村の「旧高旧領取調帳」137石余が合算される)。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数48,人数294であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,飽海村「御城内神明・八幡宮社・真言宗海蔵寺」とある。
明治11(1878)年,豊橋村に合併した。明治39(1906)年,豊橋市大字飽海,大正15(1926)年に飽海町となった。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
飽海の地名は,飽海河の渡しとして「類聚三代格」(承和2年)太政官符に現われる。「和名類聚鈔」(承平年間)の渥美郡6郷中の渥美であるとの説もある。しかし,伊勢神宮領の「本神戸廿戸号渥美神戸,新神戸十戸号飽海神戸,新加神戸十戸」の記述などから,渥美郷は田原であるともいう。飽海の文字は河川名のため,「好字」とか「嘉名」を取らなかったものとされる。
永正2(1605)年,牧野古白によって今橋城が豊川(とよがわ)と朝倉川の合流点の河岸段丘上に築かれた。城地の東部は飽海村地で,西部は馬見塚(まみづか)村地であった。そのため飽海村は,牛川村地に若宮村を新開し,一部の人たちは飯村(いむれ)にも移住した。
村高は,「三河国村々高附」(寛永期)に122石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に,豊橋藩領分20石余,神明社領11石余とある(八名郡若宮村の「旧高旧領取調帳」137石余が合算される)。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば家数48,人数294であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,飽海村「御城内神明・八幡宮社・真言宗海蔵寺」とある。
明治11(1878)年,豊橋村に合併した。明治39(1906)年,豊橋市大字飽海,大正15(1926)年に飽海町となった。
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