でんかそうぎ
電価争議は,大正9~10(1920~21)年の第1次電価争議と昭和5~6(1930~31)年の第2次電価争議の2回あった。第1次電価争議は,豊橋電気株式会社の合併問題が発端となった。大正9(1920)年12月,豊橋電気株式会社は,名古屋電燈株式会社との合併を決め,合併仮契約書に調印した。豊橋市も豊橋電気株式会社を買収して,電気事業の市営化を計画していた。そのため合併問題は,政治問題となった。ことに,同志派の総帥大口喜六が,豊橋電気の重役に名を連ねていたため,豊橋市議会は同志派と実業派がこの問題で激しく争う事態となった。
大正10(1921)年4月,豊橋電気株式会社と名古屋電燈株式会社の合併が監督官庁により認可されると,市民の関心は電気料金の値下げ問題に移り,同10(21)年8月には豊橋市電気料値下期成同盟会が結成され,全市的運動へと発展した。その後期成同盟会は,名古屋電燈株式会社と再三の交渉をしたが,妥協を得ることができず,大正10(1921)年10月,愛知県知事の仲裁により解決を見た。その時の仲裁案は ①大正11(1922)年7月より料金の値下げをする ②電球の無料交換をする ③合併記念として公会堂(豊橋市公会堂)を市に寄付するなどであった。
第2次電価争議は,昭和5(1930)年に設立された中部電力株式会社(岡崎)に対して電気料金の値下げを要求して行われた。豊橋市内各町内会が積極的に参加し,電気料金の供託や減灯・廃灯で電力会社に対抗したため,一時繁華街の街灯や各戸の門灯も消され,市街地は暗黒化の様相を呈した。昭和6(1931)年10月,中部電力が交付金7万円を負担することで解決をみたが,これは需要者一戸当たり4円弱であった。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
電価争議は,大正9~10(1920~21)年の第1次電価争議と昭和5~6(1930~31)年の第2次電価争議の2回あった。第1次電価争議は,豊橋電気株式会社の合併問題が発端となった。大正9(1920)年12月,豊橋電気株式会社は,名古屋電燈株式会社との合併を決め,合併仮契約書に調印した。豊橋市も豊橋電気株式会社を買収して,電気事業の市営化を計画していた。そのため合併問題は,政治問題となった。ことに,同志派の総帥大口喜六が,豊橋電気の重役に名を連ねていたため,豊橋市議会は同志派と実業派がこの問題で激しく争う事態となった。
大正10(1921)年4月,豊橋電気株式会社と名古屋電燈株式会社の合併が監督官庁により認可されると,市民の関心は電気料金の値下げ問題に移り,同10(21)年8月には豊橋市電気料値下期成同盟会が結成され,全市的運動へと発展した。その後期成同盟会は,名古屋電燈株式会社と再三の交渉をしたが,妥協を得ることができず,大正10(1921)年10月,愛知県知事の仲裁により解決を見た。その時の仲裁案は ①大正11(1922)年7月より料金の値下げをする ②電球の無料交換をする ③合併記念として公会堂(豊橋市公会堂)を市に寄付するなどであった。
第2次電価争議は,昭和5(1930)年に設立された中部電力株式会社(岡崎)に対して電気料金の値下げを要求して行われた。豊橋市内各町内会が積極的に参加し,電気料金の供託や減灯・廃灯で電力会社に対抗したため,一時繁華街の街灯や各戸の門灯も消され,市街地は暗黒化の様相を呈した。昭和6(1931)年10月,中部電力が交付金7万円を負担することで解決をみたが,これは需要者一戸当たり4円弱であった。
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