なんぱせん

 江戸時代に遠州灘を通過した廻船が難破した記録が残されている。元和7(1621)年以来,海難救助と浮荷物などの取揚げ・報酬などを規定した浦高札が建てられた。豊橋市域に属する下細谷村(豊橋市東細谷町)から城下村(豊橋市城下町)に至る村々の難破船の数は100をこえると思われるが,元禄4(1691)年の土佐国祢浦船から慶応3(1867)年の遠州新居宿船まで19例を調査することができたという。また,遠州灘に面した地域の寺院には,破船による水死者の墓がある。大円寺(豊橋市城下町)境内には,文化4(1807)年に建立された紀州無呂郡の7人乗船死者5人の墓碑がある。

 参考文献 - 近藤恒次「近世遠州灘難破船の研究」(愛知大学「綜合郷土研究所紀要」第1輯)

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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