りくぐんよびしかんがっこう
昭和13(1938)年3月,陸軍予備士官学校令が制定され,翌14(1939)年8月,陸軍教育総監部の直轄の下に,豊橋・盛岡・仙台・前橋・久留米・熊本に陸軍予備士官学校が開校された。豊橋陸軍予備士官学校は当初豊橋陸軍教導学校内(豊橋市町畑町)に併置された。なお豊橋の場合,すでに昭和12(1937)年12月,甲種幹部候補生第1期生が入校しており,実質的に予備士官教育が始まっていた。昭和15(1940)年11月,教導学校は豊橋市西口町(岩西小学校ほか)に移ったが,同18(43)年7月閉校し,教導学校は豊橋第二陸軍予備士官学校となり,従来の予備士官学校は豊橋第一陸軍予備士官学校となった。
陸軍予備士官学校は,各部隊(原隊)に入隊した一般兵から選抜された甲種幹部候補生を予備役将校に教育する学校であった。昭和19(1944)年10月になると,新たに陸軍特別甲種幹部候補生の教育が始まり,そのために在校の甲種幹部候補生第11期生は,教育途中で戦地の教育隊に配属された。昭和20(1945)年7月,豊橋第二陸軍予備士官学校は習志野(千葉県習志野市)に移転を命ぜられたので,従来の豊橋第一陸軍予備士官学校は豊橋陸軍予備士官学校に改称した。昭和20(1945)年8月31日,敗戦により閉校した。
卒業生は約1万8000人に達し,多くの下級将校が中国各地・ノモンハン・アッツ・ガダルカナル・ニューギニア・ビルマ・フィリピン・満州・広島などの激戦地で戦死した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
昭和13(1938)年3月,陸軍予備士官学校令が制定され,翌14(1939)年8月,陸軍教育総監部の直轄の下に,豊橋・盛岡・仙台・前橋・久留米・熊本に陸軍予備士官学校が開校された。豊橋陸軍予備士官学校は当初豊橋陸軍教導学校内(豊橋市町畑町)に併置された。なお豊橋の場合,すでに昭和12(1937)年12月,甲種幹部候補生第1期生が入校しており,実質的に予備士官教育が始まっていた。昭和15(1940)年11月,教導学校は豊橋市西口町(岩西小学校ほか)に移ったが,同18(43)年7月閉校し,教導学校は豊橋第二陸軍予備士官学校となり,従来の予備士官学校は豊橋第一陸軍予備士官学校となった。
陸軍予備士官学校は,各部隊(原隊)に入隊した一般兵から選抜された甲種幹部候補生を予備役将校に教育する学校であった。昭和19(1944)年10月になると,新たに陸軍特別甲種幹部候補生の教育が始まり,そのために在校の甲種幹部候補生第11期生は,教育途中で戦地の教育隊に配属された。昭和20(1945)年7月,豊橋第二陸軍予備士官学校は習志野(千葉県習志野市)に移転を命ぜられたので,従来の豊橋第一陸軍予備士官学校は豊橋陸軍予備士官学校に改称した。昭和20(1945)年8月31日,敗戦により閉校した。
卒業生は約1万8000人に達し,多くの下級将校が中国各地・ノモンハン・アッツ・ガダルカナル・ニューギニア・ビルマ・フィリピン・満州・広島などの激戦地で戦死した。
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