すずき・えきじ(1851~1928)
鈴木駅次は,嘉永4(1851)年8月28日,吉田(豊橋)藩士杉本百助の2男として生まれた。幼名は百合吉,慶応元(1865)年鈴木直之進の養嗣子となり,時習館学問所素読方見習となった。19歳の時,駅次と改名,学問所助教となる。明治4(1871)年には東京に出て英語を学び,城内旧御殿を借り受けて英書講習所「好問社」を設け,英語教授方となって,子弟の教育に当たった。
明治7(1874)年,穂積清軒が没したのを機に好問社を閉校して上京した。丸屋商社に入社して,事務方として力量を発揮した。明治10(1877)年第七十六国立銀行創立にかかわった時,陸奥尾太鉱山(青森県)の採掘計画に参画するが失敗する。しかし,鉱山開発への関心は強く,美作国盛鉱山(岡山県),細倉鉱山(宮城県直方市)・頓野炭鉱(福岡県栗原郡鴬沢町)を次々と開発し成功させた。大正5(1916)年,病に倒れて事業から引退した。昭和3(1928)年3月30日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
鈴木駅次は,嘉永4(1851)年8月28日,吉田(豊橋)藩士杉本百助の2男として生まれた。幼名は百合吉,慶応元(1865)年鈴木直之進の養嗣子となり,時習館学問所素読方見習となった。19歳の時,駅次と改名,学問所助教となる。明治4(1871)年には東京に出て英語を学び,城内旧御殿を借り受けて英書講習所「好問社」を設け,英語教授方となって,子弟の教育に当たった。
明治7(1874)年,穂積清軒が没したのを機に好問社を閉校して上京した。丸屋商社に入社して,事務方として力量を発揮した。明治10(1877)年第七十六国立銀行創立にかかわった時,陸奥尾太鉱山(青森県)の採掘計画に参画するが失敗する。しかし,鉱山開発への関心は強く,美作国盛鉱山(岡山県),細倉鉱山(宮城県直方市)・頓野炭鉱(福岡県栗原郡鴬沢町)を次々と開発し成功させた。大正5(1916)年,病に倒れて事業から引退した。昭和3(1928)年3月30日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!