すずき・やなまろ(1731頃~1817)

 鈴木梁満は,吉田(豊橋)魚町の熊野権現(安海熊野(やすみくまの)社)の神主の家に生まれた。延享元(1744)年家職を継ぎ,はじめ鈴木伊予重房,後に鈴木土佐梁満と称した。遠江(とおとうみ)国浜松の杉浦国満(くにまろ)に学び,荷田春満(かだあずままろ)にも師事した。明和5(1768)年,賀茂真淵の門下となった。天明5(1785)年本居宣長に入門したが,同6(86)年本居宣長から鈴木梁満に対して破門状が届いた。「近来承候へば,御職分之義ニ付,貴国神職之衆中へ対し,如何敷御義共有之候由,風聞御座候。…右は古学御執心ニハ似合不申,俗情鄙劣之御振舞。…自今師弟之義永久令改変候間…」とある。京都吉田家の下知によって,神主たちに上納金と偽ってその金子を渡したと誤り伝えられたものであろう。しかし,門人録から抹消されていないことと,破門後3年目の寛政元(1789)年,鈴木梁満の男・鈴木陸奥重野(しげの)の入門が許されていることにより,風聞が事実無根とされたのではないかと推察される。

 文化14(1817)年11月12日,87歳で没するまで古学研究に従い,稿本「万葉神祭歌」,家集「秋の野草」などのほかに「農業日用集」があり,吉田(豊橋)国学の祖といわれ,門人も80余人を数えた。

 参考文献 - 山田久次「国学者鈴木梁満」

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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