さかい・ただつぐ(1527~96)
酒井忠次は,大永7(1527)年,額田郡井田(岡崎市井田町)に,酒井忠親の子として生まれた。徳川家康が人質として駿府にあった時代には,酒井忠次は岡崎にあって,今川氏から派遣された城代のもとで城を守っていた。酒井忠次夫人は,徳川家康の叔母にあたる碓井(うすい)姫であった。永禄7(1564)年の吉田(豊橋)城攻撃に際し先鋒(せんぽう)として無血開城させるといった戦功を挙げ,吉田城は酒井忠次に与えられた。徳川家康の家臣で城が与えられたのは酒井忠次が最初であり,東三河の旗頭とされた。吉田の地は,西に対する備えのため豊川(とよがわ)に橋梁は設置されていなかった。徳川家康の三河統一により岡崎と吉田の交通が頻繁となり,元亀元(1570)年豊川の関屋口に土橋が架橋された。酒井忠次は,天正16(1588)年嫡子の酒井家次(1564~1618)に家督を譲って隠居した。のち,薙髪(ちはつ)して法名を一智と称し,豊臣秀吉から贈られた京都桜井の邸に住み,慶長元(1596)年10月28日,没した。
酒井家次は三河吉田を領したが,天正18(1590)年徳川家康の関東移封に従って,下総国臼井(うすい)(千葉県佐倉市)3万石,慶長9(1604)年上野国高崎(高崎市)5万石,元和2(1616)年越後国高田(上越市)10万石を領した。元和4(1618)年,没した。55歳。その子孫は,転封を重ね,出羽国庄内(山形県鶴岡市)で明治維新を迎えた。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
酒井忠次は,大永7(1527)年,額田郡井田(岡崎市井田町)に,酒井忠親の子として生まれた。徳川家康が人質として駿府にあった時代には,酒井忠次は岡崎にあって,今川氏から派遣された城代のもとで城を守っていた。酒井忠次夫人は,徳川家康の叔母にあたる碓井(うすい)姫であった。永禄7(1564)年の吉田(豊橋)城攻撃に際し先鋒(せんぽう)として無血開城させるといった戦功を挙げ,吉田城は酒井忠次に与えられた。徳川家康の家臣で城が与えられたのは酒井忠次が最初であり,東三河の旗頭とされた。吉田の地は,西に対する備えのため豊川(とよがわ)に橋梁は設置されていなかった。徳川家康の三河統一により岡崎と吉田の交通が頻繁となり,元亀元(1570)年豊川の関屋口に土橋が架橋された。酒井忠次は,天正16(1588)年嫡子の酒井家次(1564~1618)に家督を譲って隠居した。のち,薙髪(ちはつ)して法名を一智と称し,豊臣秀吉から贈られた京都桜井の邸に住み,慶長元(1596)年10月28日,没した。
酒井家次は三河吉田を領したが,天正18(1590)年徳川家康の関東移封に従って,下総国臼井(うすい)(千葉県佐倉市)3万石,慶長9(1604)年上野国高崎(高崎市)5万石,元和2(1616)年越後国高田(上越市)10万石を領した。元和4(1618)年,没した。55歳。その子孫は,転封を重ね,出羽国庄内(山形県鶴岡市)で明治維新を迎えた。
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