こんどう・つねじ(1910~78)
近藤恒次は,明治43(1910)年8月22日,近藤宇一の長男として豊橋市中柴町に生まれた。東洋大学専門部を卒業し,豊橋市立商業学校,豊橋工業学校,愛知県立時習館高等学校教諭を歴任した。昭和15(1940)年「明治初期に於ける豊橋地方の初等教育」を著した。昭和18(1943)年,豊橋市立商業学校開校20周年記念「東三河産業功労者伝」は近藤恒次の編集によるものといわれる。
昭和31(1956)年,「三河文献綜覧」(昭和29年)で豊橋文化賞を受賞した。昭和47(1972)年,「東海道新居関所の研究」(昭和44年)で東洋大学から文学博士号を授与された。昭和25(1950)年から,愛知大学綜合郷土研究所員として,「愛知大学綜合郷土研究所紀要」には毎号論稿を執筆した。「愛知大学綜合郷土研究所研究叢書」Ⅰとして「近世の交通と地方文化」(昭和61年)が刊行された。宝飯地方史資料の「三河文献集成」(昭和40年)は,長年の研究成果である。昭和52(1977)年に出版された,「学徒動員と豊川海軍工廠」は,豊橋工業学校に勤務していた時期の生徒が多数爆撃で死んだ鎮魂の書である。
「豊橋市史」の編集委員としてその編集執筆には精魂をかたむけたが,昭和53(1978)年「時習館史」を脱稿した直後,8月16日,没した。近藤恒次が収集した資料は「橋良文庫」として豊橋市中央図書館・豊橋市美術博物館に収蔵されている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
近藤恒次は,明治43(1910)年8月22日,近藤宇一の長男として豊橋市中柴町に生まれた。東洋大学専門部を卒業し,豊橋市立商業学校,豊橋工業学校,愛知県立時習館高等学校教諭を歴任した。昭和15(1940)年「明治初期に於ける豊橋地方の初等教育」を著した。昭和18(1943)年,豊橋市立商業学校開校20周年記念「東三河産業功労者伝」は近藤恒次の編集によるものといわれる。
昭和31(1956)年,「三河文献綜覧」(昭和29年)で豊橋文化賞を受賞した。昭和47(1972)年,「東海道新居関所の研究」(昭和44年)で東洋大学から文学博士号を授与された。昭和25(1950)年から,愛知大学綜合郷土研究所員として,「愛知大学綜合郷土研究所紀要」には毎号論稿を執筆した。「愛知大学綜合郷土研究所研究叢書」Ⅰとして「近世の交通と地方文化」(昭和61年)が刊行された。宝飯地方史資料の「三河文献集成」(昭和40年)は,長年の研究成果である。昭和52(1977)年に出版された,「学徒動員と豊川海軍工廠」は,豊橋工業学校に勤務していた時期の生徒が多数爆撃で死んだ鎮魂の書である。
「豊橋市史」の編集委員としてその編集執筆には精魂をかたむけたが,昭和53(1978)年「時習館史」を脱稿した直後,8月16日,没した。近藤恒次が収集した資料は「橋良文庫」として豊橋市中央図書館・豊橋市美術博物館に収蔵されている。
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