とよはしべついん

 豊橋別院(真宗大谷派)の創立については,天文3(1534)年説(「三州吉田記」)と寛永初年説(「豊橋及其附近」)など諸説があるが,現存している文献によると文禄4(1595)年ごろ,本願寺の教如上人(1558~1614)が現在地に吉田惣道場を創立して誓念寺と称したことが豊橋別院のはじまりであるとされる。

 寛永21(1644)年,本願寺付属の道場として教如上人の子,宣如上人が再建した。そのため豊橋別院では宣如上人を開山としている。本尊は阿弥陀如来立像である。伝春日作での普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)から譲り受けたものと伝えられている。

 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「一向宗,下リ町裏,西竺山誓念寺,京都東本願寺末寺,御坊無住,客殿拾壱間・拾間,塔中応通寺・蓮泉寺・浄円寺・正林寺・仁長寺・〆五ヶ寺末寺」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に,「吉田,無印地,一向宗東本願寺掛所故無住,塔頭五ヶ寺,応通寺・蓮泉寺・仁長寺・浄円寺・正琳寺,西笠山誓念寺」とある。御坊無住のため,塔頭(たっちゅう)の五か寺が交代で管理している。

 文久2(1862)年,山門その他を新築したが,明治4(1871)年10月火災で焼失した。明治初期は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮の中で一時,廃寺の命を受けたが,「講究所」と名を替えて存続が認められた。明治12(1879)年「豊橋別院」として公認され,2年後,諸堂宇が建立された。昭和20(1945)年6月の空襲によって全伽藍(がらん)を焼失したが,本尊仏や祖師画像は疎開していたので無事であった。昭和23(1948)年から諸堂の復興に取りかかった。昭和26(1951)年「花園幼稚園」を開園した。昭和60(1985)年鉄筋コンクリートの本堂が再建された。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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