かんのんいん
宝樹山観音院(浄土宗西山禅林寺派)は,仁連木(にれんぎ)村(豊橋市東田(あずまだ)町)にあったが,元禄12(1699)年浄慈院3世覚元の弟子南嶽寂厳が開山となり,中世古に移築した。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「猿屋町観音堂,四尺四方,山伏観音院支配,円心房」とある。本尊千手観音像は大和国(奈良県桜井市)の長谷寺観音と同木で造られたと伝えられている。寺の記録には,正徳4(1714)年10月吉田(豊橋)藩主松平信祝(のぶとき)が「観音堂」を新築,寄進したとある。
昭和20(1945)年6月空襲にあって建物すべてを焼失した。第2次世界大戦後,本堂兼庫裏(くり)を新築し,昭和50(1975)年には庫裏を新築した。境内には,元文5(1740)年の庚申塔(こうしんとう)と石造33観音が往時の姿をとどめている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
宝樹山観音院(浄土宗西山禅林寺派)は,仁連木(にれんぎ)村(豊橋市東田(あずまだ)町)にあったが,元禄12(1699)年浄慈院3世覚元の弟子南嶽寂厳が開山となり,中世古に移築した。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,羽田村「猿屋町観音堂,四尺四方,山伏観音院支配,円心房」とある。本尊千手観音像は大和国(奈良県桜井市)の長谷寺観音と同木で造られたと伝えられている。寺の記録には,正徳4(1714)年10月吉田(豊橋)藩主松平信祝(のぶとき)が「観音堂」を新築,寄進したとある。
昭和20(1945)年6月空襲にあって建物すべてを焼失した。第2次世界大戦後,本堂兼庫裏(くり)を新築し,昭和50(1975)年には庫裏を新築した。境内には,元文5(1740)年の庚申塔(こうしんとう)と石造33観音が往時の姿をとどめている。
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