けんかいじ
流水山見海寺(曹洞宗)は,もと渥美郡赤羽根村越戸字大山(田原市)の地にあって,赤羽根村(田原市)厳王寺の隠居地となっていた。厳王寺第4世高山昌運和尚が隠栖(いんせい)の地として,文禄5(1596)年2月越戸の大山に一堂を創したのをはじまりとする。
大山の地は太平洋を下観し,山上の至る所に清泉が湧いているところから,清水閣見海寺の寺名が付いたのである。田原藩は往時寺院の瓦葺(かわらぶ)きを禁じていたが,見海寺のみ村内唯一の瓦葺き5間・4間の古建築であった。その後も,代々厳王寺の住持が隠栖し,江戸時代は寺子屋を営み,明治維新後は青年学校を開いた。大正末年ごろから寺勢衰え廃寺同様となったため,禅応豪宗和尚は移転再興を発願し,海外巡錫(じゅんしゃく)の後,昭和10(1935)年豊橋市伝馬町に住居を建てて布教に従事し,同25(50)年6月本堂の移転改築に着手し,同27(52)年完了した。本尊の聖観世音菩薩坐像は赤羽根から請来したものであり,開山は厳王寺第4世高山昌運和尚である。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
流水山見海寺(曹洞宗)は,もと渥美郡赤羽根村越戸字大山(田原市)の地にあって,赤羽根村(田原市)厳王寺の隠居地となっていた。厳王寺第4世高山昌運和尚が隠栖(いんせい)の地として,文禄5(1596)年2月越戸の大山に一堂を創したのをはじまりとする。
大山の地は太平洋を下観し,山上の至る所に清泉が湧いているところから,清水閣見海寺の寺名が付いたのである。田原藩は往時寺院の瓦葺(かわらぶ)きを禁じていたが,見海寺のみ村内唯一の瓦葺き5間・4間の古建築であった。その後も,代々厳王寺の住持が隠栖し,江戸時代は寺子屋を営み,明治維新後は青年学校を開いた。大正末年ごろから寺勢衰え廃寺同様となったため,禅応豪宗和尚は移転再興を発願し,海外巡錫(じゅんしゃく)の後,昭和10(1935)年豊橋市伝馬町に住居を建てて布教に従事し,同25(50)年6月本堂の移転改築に着手し,同27(52)年完了した。本尊の聖観世音菩薩坐像は赤羽根から請来したものであり,開山は厳王寺第4世高山昌運和尚である。
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