にしのいしばいやきがまあと
西野石灰焼窯跡は,豊橋市石巻本町西野に所在した板倉家所有の石灰生産用の窯である。創業は江戸時代末の板倉文右衛門(英光)と伝わる。平成13(2001)年に豊橋市教育委員会が発掘調査を行い,江戸時代末から明治33(1900)年まで順次操業を続けた3基の窯が発見された。
窯は,炉体部と取出部を上下に配置する竪窯の構造で,4~5mの高さに輝緑凝灰岩や石灰岩を積み上げて窯壁(ようへき)とし,炉体部の壁は更に粘土塊や煉瓦で覆っていた。直径0.8~2mほどの投入口から原料の石灰石と木炭・石炭などの燃料を入れ,円柱や逆円錐状の炉体部で焼成し,最も狭くなった炉底取り出し口から落下する生石灰を取出部で掻き出す形態となっている。生産された生石灰は,加水して消石灰となり,土壌中和剤や漆喰(しっくい)・三和土(たたき)などにも広く利用された。
こうした石灰窯は,豊橋市では石灰岩が産出される豊橋市石巻中山町・石巻本町・石巻町・嵩山(すせ)町などで25基が確認されている。これらは,江戸時代から昭和45(1970)年まで操業しており,全国的にも当地域を特徴づける産業遺産としてとらえられている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
西野石灰焼窯跡は,豊橋市石巻本町西野に所在した板倉家所有の石灰生産用の窯である。創業は江戸時代末の板倉文右衛門(英光)と伝わる。平成13(2001)年に豊橋市教育委員会が発掘調査を行い,江戸時代末から明治33(1900)年まで順次操業を続けた3基の窯が発見された。
窯は,炉体部と取出部を上下に配置する竪窯の構造で,4~5mの高さに輝緑凝灰岩や石灰岩を積み上げて窯壁(ようへき)とし,炉体部の壁は更に粘土塊や煉瓦で覆っていた。直径0.8~2mほどの投入口から原料の石灰石と木炭・石炭などの燃料を入れ,円柱や逆円錐状の炉体部で焼成し,最も狭くなった炉底取り出し口から落下する生石灰を取出部で掻き出す形態となっている。生産された生石灰は,加水して消石灰となり,土壌中和剤や漆喰(しっくい)・三和土(たたき)などにも広く利用された。
こうした石灰窯は,豊橋市では石灰岩が産出される豊橋市石巻中山町・石巻本町・石巻町・嵩山(すせ)町などで25基が確認されている。これらは,江戸時代から昭和45(1970)年まで操業しており,全国的にも当地域を特徴づける産業遺産としてとらえられている。
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