にしなんだいいせき
西南代遺跡は,豊橋市杉山町西南代にあった縄文時代早期から中世までに断続的に営まれた遺跡である。遺跡は紙田川と蜆川に挟まれ,渥美湾に向かって伸びる台地の先端に位置している。標高は23mで,台地下の水田面とは約17mの比高差がある。平成10(1998)年に宅地開発事業に伴い,記録保存のための発掘調査が行われ,現在は住宅地になっている。
縄文時代は早期後半の竪穴住居6棟と埋没谷1か所が確認された。竪穴住居は柱穴しか残っていないが,8本柱で円形と考えられる。台地頂部で南側に開くように半円形で並んでおり,埋没谷はそのすぐ北側の斜面にあった。出土した遺物には,口縁部が波状あるいは平縁(ひらえん)で砲弾型をし,底部がとがった深鉢で粕畑式(かすはたしき)と呼ばれる土器と打製石斧,打製石鏃(せきぞく),敲石(たたきいし),磨石(すりいし),石皿などの石器がある。縄文時代早期の西南代遺跡は,豊橋市内でも集落のほぼ全域が判明した珍しい遺跡であり,短期間だけ営まれた小規模な集落であったとされる。
弥生時代は,中期の竪穴住居が5棟と若干の土壙(どこう)が確認されている。遺物には各種の壺類や台坏甕などの土器のほか,柱状片刃石斧(ちゅうじょうかたはせきふ)などの石器が出土している。弥生時代中期は小規模な集落が短期間営まれていたようである。古墳時代は,後期の方形の竪穴住居2棟と若干の土壙が確認されている。竪穴住居では,壁際の貯蔵穴から土師器(はじき)の甕(かめ)や須恵器の坏(つき)が出土している。古墳時代は,弥生時代と同様に後期の小規模な集落が営まれていたようである。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
西南代遺跡は,豊橋市杉山町西南代にあった縄文時代早期から中世までに断続的に営まれた遺跡である。遺跡は紙田川と蜆川に挟まれ,渥美湾に向かって伸びる台地の先端に位置している。標高は23mで,台地下の水田面とは約17mの比高差がある。平成10(1998)年に宅地開発事業に伴い,記録保存のための発掘調査が行われ,現在は住宅地になっている。
縄文時代は早期後半の竪穴住居6棟と埋没谷1か所が確認された。竪穴住居は柱穴しか残っていないが,8本柱で円形と考えられる。台地頂部で南側に開くように半円形で並んでおり,埋没谷はそのすぐ北側の斜面にあった。出土した遺物には,口縁部が波状あるいは平縁(ひらえん)で砲弾型をし,底部がとがった深鉢で粕畑式(かすはたしき)と呼ばれる土器と打製石斧,打製石鏃(せきぞく),敲石(たたきいし),磨石(すりいし),石皿などの石器がある。縄文時代早期の西南代遺跡は,豊橋市内でも集落のほぼ全域が判明した珍しい遺跡であり,短期間だけ営まれた小規模な集落であったとされる。
弥生時代は,中期の竪穴住居が5棟と若干の土壙(どこう)が確認されている。遺物には各種の壺類や台坏甕などの土器のほか,柱状片刃石斧(ちゅうじょうかたはせきふ)などの石器が出土している。弥生時代中期は小規模な集落が短期間営まれていたようである。古墳時代は,後期の方形の竪穴住居2棟と若干の土壙が確認されている。竪穴住居では,壁際の貯蔵穴から土師器(はじき)の甕(かめ)や須恵器の坏(つき)が出土している。古墳時代は,弥生時代と同様に後期の小規模な集落が営まれていたようである。
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