さいこうじ
日東山西光寺(曹洞宗)は慶長6(1601)年,竜拈寺(りゅうねんじ)2世祖庵英彭和尚の開創と伝えられている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「禅宗,手間町,日東山西光寺,吉田竜拈寺末寺,平僧,客殿五間・四間,寺領三石目,伊奈備前守様御証文有之」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に,「手間町馬見塚地,吉田,黒印三石,禅宗曹洞派,本寺吉田竜拈寺,日東山西光寺」とある。
西光寺の創立については異説がある。「三河国吉田名蹤綜録」の松山正林寺の項に,「鎌倉建長寺から韋駄天(いだてん)像七体を送り来て建長寺の末寺に分与した」とあり,その七か寺の中の西方寺が西光寺の誤記と考えられることから,創立は相当古く,建長寺末の臨済宗であったのではないか。この古刹に対して,「三州吉田領神社仏閣記」にあるように「慶長六年黒印を授けられたのを機に,英彭和尚を追請して曹洞宗に改めた」と考えられる。
本尊は阿弥陀如来像である。大口喜六は「この仏像は元神宮寺にあったものを当寺に勧請したとの伝説があるが,今の神宮寺の位牌堂安置の仏像と同一様式で,徳川初期の製作である」と評しているが,由緒等は明らかでない。
明治42(1909)年酉の市を勧請し,今日まで「お酉さまの寺」として知られ,市も盛況を極めている。昭和20(1945)年6月の空襲により堂宇(どうう)すべてを焼失した。昭和36(1961)年本堂落慶,同52(77)年には三階建ての位牌(いはい)堂兼庫裏(くり)完成,山門も平成2(1990)年に完成した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
日東山西光寺(曹洞宗)は慶長6(1601)年,竜拈寺(りゅうねんじ)2世祖庵英彭和尚の開創と伝えられている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,馬見塚村「禅宗,手間町,日東山西光寺,吉田竜拈寺末寺,平僧,客殿五間・四間,寺領三石目,伊奈備前守様御証文有之」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に,「手間町馬見塚地,吉田,黒印三石,禅宗曹洞派,本寺吉田竜拈寺,日東山西光寺」とある。
西光寺の創立については異説がある。「三河国吉田名蹤綜録」の松山正林寺の項に,「鎌倉建長寺から韋駄天(いだてん)像七体を送り来て建長寺の末寺に分与した」とあり,その七か寺の中の西方寺が西光寺の誤記と考えられることから,創立は相当古く,建長寺末の臨済宗であったのではないか。この古刹に対して,「三州吉田領神社仏閣記」にあるように「慶長六年黒印を授けられたのを機に,英彭和尚を追請して曹洞宗に改めた」と考えられる。
本尊は阿弥陀如来像である。大口喜六は「この仏像は元神宮寺にあったものを当寺に勧請したとの伝説があるが,今の神宮寺の位牌堂安置の仏像と同一様式で,徳川初期の製作である」と評しているが,由緒等は明らかでない。
明治42(1909)年酉の市を勧請し,今日まで「お酉さまの寺」として知られ,市も盛況を極めている。昭和20(1945)年6月の空襲により堂宇(どうう)すべてを焼失した。昭和36(1961)年本堂落慶,同52(77)年には三階建ての位牌(いはい)堂兼庫裏(くり)完成,山門も平成2(1990)年に完成した。
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