すがえ・ますみ(1754~1829)
菅江真澄は,宝暦4(1754)年,渥美郡高須新田(豊橋市高州町)の庄屋白井八兵衛の子に生まれたといわれる。はじめは,白井英二・知之・秀超・秀雄などと称し,後年に秋田へ行ってからは菅江真澄と名乗るようになった。菅江真澄は,故郷や出自を明確にしなかった。植田義方(よしえ)に学び,その後,岡崎に居住した。天明3(1783)年,岡崎を出発して信濃から出羽,津軽,蝦夷地を遊歴する旅に出た。三河を出てから47年間一度も故郷に帰ることなく,その間に書き残した日記・地誌・随筆は200冊以上におよび,これらを総称して「菅江真澄遊覧記」と呼ばれる。文政5(1822)年久保田(秋田)藩主佐竹侯から依頼された地誌作成に取り掛かった。久保田藩領角館(秋田県仙北郡角舘町)の客舎で,文政12(1829)年7月19日,76歳で没した。
参考文献 - 近藤恒次「賀茂真淵と菅江真澄」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
菅江真澄は,宝暦4(1754)年,渥美郡高須新田(豊橋市高州町)の庄屋白井八兵衛の子に生まれたといわれる。はじめは,白井英二・知之・秀超・秀雄などと称し,後年に秋田へ行ってからは菅江真澄と名乗るようになった。菅江真澄は,故郷や出自を明確にしなかった。植田義方(よしえ)に学び,その後,岡崎に居住した。天明3(1783)年,岡崎を出発して信濃から出羽,津軽,蝦夷地を遊歴する旅に出た。三河を出てから47年間一度も故郷に帰ることなく,その間に書き残した日記・地誌・随筆は200冊以上におよび,これらを総称して「菅江真澄遊覧記」と呼ばれる。文政5(1822)年久保田(秋田)藩主佐竹侯から依頼された地誌作成に取り掛かった。久保田藩領角館(秋田県仙北郡角舘町)の客舎で,文政12(1829)年7月19日,76歳で没した。
参考文献 - 近藤恒次「賀茂真淵と菅江真澄」
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