くさまじょう
草間城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城で,畔田氏関連の城跡群の中では最も北に位置している。築城時期などは不明。規模については地籍図から150m×100mほどと考えられている。「三河国二葉松」三州古城記(元文5年)に,「草間村古城芳賀入道禅可カ末孫芳賀七郎住之後,畔田監物住」とある。
城址は城山団地付近から東の素盞嗚(すさのお)神社付近と推定され,そこはちょうど半島状に突き出た丘陵の先端に当たり,かつては三方は海であったとされる。現在,遺構その他城址(じょうし)を示すものは何もない。この城の様子を伝える広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河草間」には,桝形(ますがた)状の虎口(こぐち),櫓台(やぐらだい),丸馬出などが描かれているが,実際こうしたものが存在していたかについては明らかではない。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
草間城は,豊橋南部の梅田川流域で勢力を誇った畔田(くろだ)氏の城で,畔田氏関連の城跡群の中では最も北に位置している。築城時期などは不明。規模については地籍図から150m×100mほどと考えられている。「三河国二葉松」三州古城記(元文5年)に,「草間村古城芳賀入道禅可カ末孫芳賀七郎住之後,畔田監物住」とある。
城址は城山団地付近から東の素盞嗚(すさのお)神社付近と推定され,そこはちょうど半島状に突き出た丘陵の先端に当たり,かつては三方は海であったとされる。現在,遺構その他城址(じょうし)を示すものは何もない。この城の様子を伝える広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河草間」には,桝形(ますがた)状の虎口(こぐち),櫓台(やぐらだい),丸馬出などが描かれているが,実際こうしたものが存在していたかについては明らかではない。
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