はが・やすじ(1857~1934)
芳賀保治は,安政4(1857)年1月12日,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂大西町)の5代芳賀清治郎憲祥の長男として生まれた。明治13(1880)年明治新田干拓の発起人に名をつらねているが,公職についたのは,同19(86)年牟呂村外2か村役場書記に挙げられたのが最初である。明治22(89)年牟呂村村会議員になり,牟呂村2代・6代村長,牟呂吉田村8代・9代村長を務めた。明治40(1907)年渥美郡会議員,昭和7(1932)年豊橋市会議員となった。
もっとも顕著な事績は,六条潟の海苔養殖である。明治26(1893)年神野新田決壊個所の枯れ葭(よし)付着の海苔を見つけ,同28(95)年神野新田五号堤・吉前(よしざき)新田沖に柴朶(そだ)を立てた。明治30(1897)年牟呂・前芝の8漁業組合に呼びかけて,25万坪の六条潟海苔場を新設した。明治39(1906)年三河乾海苔改良組合(明治45年三河海苔同業組合と改称)を設立して,組合長となった。大正14(1925)年豊橋市牟呂町大西の八幡社境内に銅像が建立されたが,第2次世界大戦中に金属回収され,昭和27(1952)年再鋳された。昭和9(1934)年4月15日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
芳賀保治は,安政4(1857)年1月12日,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂大西町)の5代芳賀清治郎憲祥の長男として生まれた。明治13(1880)年明治新田干拓の発起人に名をつらねているが,公職についたのは,同19(86)年牟呂村外2か村役場書記に挙げられたのが最初である。明治22(89)年牟呂村村会議員になり,牟呂村2代・6代村長,牟呂吉田村8代・9代村長を務めた。明治40(1907)年渥美郡会議員,昭和7(1932)年豊橋市会議員となった。
もっとも顕著な事績は,六条潟の海苔養殖である。明治26(1893)年神野新田決壊個所の枯れ葭(よし)付着の海苔を見つけ,同28(95)年神野新田五号堤・吉前(よしざき)新田沖に柴朶(そだ)を立てた。明治30(1897)年牟呂・前芝の8漁業組合に呼びかけて,25万坪の六条潟海苔場を新設した。明治39(1906)年三河乾海苔改良組合(明治45年三河海苔同業組合と改称)を設立して,組合長となった。大正14(1925)年豊橋市牟呂町大西の八幡社境内に銅像が建立されたが,第2次世界大戦中に金属回収され,昭和27(1952)年再鋳された。昭和9(1934)年4月15日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
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