ふなはし・すいさい(1874頃~1945)
舟橋水哉は,蓮泉寺住職舟橋得忍の長男として生まれた。真宗大学を卒業し,明治44(1911)4月,大谷大学教授となり,倶舎論(くしゃろん)を担当した。大正15(1926)年,大学を退職し豊橋へ帰り,豊橋仏教会長に就任した。その後,豊川学堂(豊川高等学校)の講師も務めた。
昭和6(1931)年「豊橋趣味会」を結成し,自ら会長となった。当時,豊橋趣味会の会員には,豊田珍比古(うずひこ)・近藤恒次・丸地幸之助(古城)・近藤信彦・白井一二らがいた。
昭和5(1930)年8月,自坊の蓮泉寺山門前に鉄筋コンクリート2階建ての納骨堂を建て,上層部を書庫とし「大正新修一切経」をはじめ,内外の書籍数千巻を収納し,多くの人々の閲覧に供した。この書庫を自分の号である「三舟」にちなみ「三舟文庫」と称した。
著書に,「小乗仏教史論」「原始仏教史」「倶舎論」など多くの論文がある。殊に,「小乗仏教史論」は中国語に訳され,教科書として用いられたといわれている。昭和20(1945)年7月27日,示寂(じじゃく)した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
舟橋水哉は,蓮泉寺住職舟橋得忍の長男として生まれた。真宗大学を卒業し,明治44(1911)4月,大谷大学教授となり,倶舎論(くしゃろん)を担当した。大正15(1926)年,大学を退職し豊橋へ帰り,豊橋仏教会長に就任した。その後,豊川学堂(豊川高等学校)の講師も務めた。
昭和6(1931)年「豊橋趣味会」を結成し,自ら会長となった。当時,豊橋趣味会の会員には,豊田珍比古(うずひこ)・近藤恒次・丸地幸之助(古城)・近藤信彦・白井一二らがいた。
昭和5(1930)年8月,自坊の蓮泉寺山門前に鉄筋コンクリート2階建ての納骨堂を建て,上層部を書庫とし「大正新修一切経」をはじめ,内外の書籍数千巻を収納し,多くの人々の閲覧に供した。この書庫を自分の号である「三舟」にちなみ「三舟文庫」と称した。
著書に,「小乗仏教史論」「原始仏教史」「倶舎論」など多くの論文がある。殊に,「小乗仏教史論」は中国語に訳され,教科書として用いられたといわれている。昭和20(1945)年7月27日,示寂(じじゃく)した。
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