じゆうみんけんうんどう

 自由民権運動は,明治7(1874)年1月に元参議板垣退助,後藤象二郎ら8人が「民撰議院設立建白書」を政府に提出したことにはじまったが,その後しばらくは,士族の反乱,農民騒動など実力行使の風潮に押され伸び悩んだ。明治10(1877)年の西南戦争以後「国会開設・地租軽減・条約改正」を綱領とする自由民権運動が全国に広まり,各地に土佐の立志社を典型とする民権派の政治グループが結成された。

 豊橋では,明治14(1881)年2月の政談演説会を契機に民権派政社「豊橋自由党」が結成された。中心となったのは,遊佐(ゆさ)発(ひらく)・村雨(むらさめ)案山子(かかし)・加治(かじ)千万人(ちまと)・加藤平吉・関口良・西川由次らで,ほとんどが旧豊橋藩士であった。明治14(1881)年6月の愛知自由党の結成には,名古屋,知立,岡崎,西尾,田原の諸結社とともに参加したが,その後離合集散を繰り返す中で,やがて岡崎・西尾・知立とともに三陽自由党に結集していった。

 こうして豊橋は,東海道筋で民権運動の一拠点となり,往来する民権家は豊橋で政談演説会を開くのを常とした。中でも明治15(1882)年3月に来豊した自由党総理板垣退助一行は,豊橋町民に刺激を与え,これを機に豊橋自由党を東海自由党と改名したという。

- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。

このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html 
豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm 

では!