はだの・たかお(1798~1882)
羽田野敬雄は,寛政10(1798)年2月14日,宝飯郡西方村(宝飯郡御津町西方)の山本兵三郎茂義の4男に生まれた。幼名を兵作また茂雄といった。通称を常陸,栄木といった。文化15(1818)年,渥美郡羽田村(豊橋市花田町斎藤)の羽田八幡社神主羽田野敬道の養嗣子となった。文政8(1825)年本居大平(もとおりおおひら)の門に入り,翌9(26)年養父の職を継いで羽田八幡社・田町(湊町)神明社の神主となった。文政10(1827)年平田篤胤の門に入り,後には三遠地方の平田門の代表者となった。天保4(1833)年,家督を継いだ。嘉永元(1848)年,同志とはかって「羽田八幡宮文庫」を設立した。「松蔭学舎」「誦習(しょうしゅう)学舎」も建てられ,慶応3(1867)年には蔵書1万0357巻に達した。明治元(1868)年,京都に皇学所が設けられるとその講官を命ぜられた。明治5(1872)年,教部省から大講義に任ぜられた。講官となったが間もなく辞し,教導職では累進し権少教正に至った。
天保6(1835)年「触穢私考」を著わして以来,同14(43)年までに「神位階私考」「参河国総国風土記考」「和名鈔三河国郡郷考」「参河国官社考集説」などの著作がある。「参河国官社私考略」が上梓(じょうし)され,「三河国古蹟考」「参河国養蚕由来記」「栄木園聞見集」などの著作もよく知られている。さらに,文化8(1811)年から明治4(1871)年まで61年間の神務を記録した「万歳書留控」(「幕末三河国神主記録」)がある。明治15(1882)年6月1日,没した。
参考文献 - 豊橋市教育会編「羽田野佐可喜翁小伝」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
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羽田野敬雄は,寛政10(1798)年2月14日,宝飯郡西方村(宝飯郡御津町西方)の山本兵三郎茂義の4男に生まれた。幼名を兵作また茂雄といった。通称を常陸,栄木といった。文化15(1818)年,渥美郡羽田村(豊橋市花田町斎藤)の羽田八幡社神主羽田野敬道の養嗣子となった。文政8(1825)年本居大平(もとおりおおひら)の門に入り,翌9(26)年養父の職を継いで羽田八幡社・田町(湊町)神明社の神主となった。文政10(1827)年平田篤胤の門に入り,後には三遠地方の平田門の代表者となった。天保4(1833)年,家督を継いだ。嘉永元(1848)年,同志とはかって「羽田八幡宮文庫」を設立した。「松蔭学舎」「誦習(しょうしゅう)学舎」も建てられ,慶応3(1867)年には蔵書1万0357巻に達した。明治元(1868)年,京都に皇学所が設けられるとその講官を命ぜられた。明治5(1872)年,教部省から大講義に任ぜられた。講官となったが間もなく辞し,教導職では累進し権少教正に至った。
天保6(1835)年「触穢私考」を著わして以来,同14(43)年までに「神位階私考」「参河国総国風土記考」「和名鈔三河国郡郷考」「参河国官社考集説」などの著作がある。「参河国官社私考略」が上梓(じょうし)され,「三河国古蹟考」「参河国養蚕由来記」「栄木園聞見集」などの著作もよく知られている。さらに,文化8(1811)年から明治4(1871)年まで61年間の神務を記録した「万歳書留控」(「幕末三河国神主記録」)がある。明治15(1882)年6月1日,没した。
参考文献 - 豊橋市教育会編「羽田野佐可喜翁小伝」
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