べいこくとりひきじょ
豊橋米穀取引所の起源は,江戸時代吉田(豊橋)曲尺手(かねんて)町と宝飯郡下地村にあった米会所と相場会所である。伊勢桑名,近江大津とともに東海道3会所といわれたが,明治9(1876)年,廃止された。明治25(1892)年,豊橋財界が米麦取引所の発足を農商務省に提出したところ,商業会議所のないような小都市に取引所の設置は必要ないとされ,翌26(93)年,急遽豊橋商業会議所を設立した。明治26(1893)年3月,米麦取引法が制定され,翌27(94)年3月,豊橋町関屋町に豊橋米麦取引所が開設された。豊橋を中心とした米商人365人,予想取扱高30石であった。明治30(1897)年5月,株式取引所併設,同32(99)年,花田村石塚(豊橋市花田町石塚)へ移転した。仲買人10人前後,取扱高30石であった。米相場の伝達は桑名から豊橋へ山から山へ手旗信号で送られ,望遠鏡で読みとる眼鏡師によって行われ,大阪相場は2分程で受信できたという。明治36(1903)年12月,株式取引を廃止,麦取引は分離され,豊橋米穀取引所に改称した。大正6(1917)年8月,米騒動が発生し取引所は暴徒に襲われた。昭和8(1933)年2月,米穀統制法が施行されると,豊橋米穀取引所は日本米穀株式会社へ市場を譲渡,45年間の幕を閉じた。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
豊橋米穀取引所の起源は,江戸時代吉田(豊橋)曲尺手(かねんて)町と宝飯郡下地村にあった米会所と相場会所である。伊勢桑名,近江大津とともに東海道3会所といわれたが,明治9(1876)年,廃止された。明治25(1892)年,豊橋財界が米麦取引所の発足を農商務省に提出したところ,商業会議所のないような小都市に取引所の設置は必要ないとされ,翌26(93)年,急遽豊橋商業会議所を設立した。明治26(1893)年3月,米麦取引法が制定され,翌27(94)年3月,豊橋町関屋町に豊橋米麦取引所が開設された。豊橋を中心とした米商人365人,予想取扱高30石であった。明治30(1897)年5月,株式取引所併設,同32(99)年,花田村石塚(豊橋市花田町石塚)へ移転した。仲買人10人前後,取扱高30石であった。米相場の伝達は桑名から豊橋へ山から山へ手旗信号で送られ,望遠鏡で読みとる眼鏡師によって行われ,大阪相場は2分程で受信できたという。明治36(1903)年12月,株式取引を廃止,麦取引は分離され,豊橋米穀取引所に改称した。大正6(1917)年8月,米騒動が発生し取引所は暴徒に襲われた。昭和8(1933)年2月,米穀統制法が施行されると,豊橋米穀取引所は日本米穀株式会社へ市場を譲渡,45年間の幕を閉じた。
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