だい15しだんゆうち
第15師団の誘致は,明治40(1907)年3月に持ち上がった。市制施行直後の豊橋市の将来発展策を模索している時であり,大きな期待が寄せられた。陸軍省は,日露戦争(1904~05)後,4個師団を増設すると発表した。そのうち1個師団は東海道筋に設置するということで,沼津,浜松,豊橋,岐阜が師団誘致に名乗りを挙げた。
初代豊橋市長大口喜六は,市議会と協力して陸軍省へ第15師団誘致を陳情した。豊橋市議会と総代会が「師団設置期成同盟会」を組織し,全市を挙げての誘致運動を盛り上げた。師団誘致運動は,浜松,豊橋,岐阜が激しく競い合ったが,「高師原」「天伯原」があり広大な大陸戦を想定する陸軍省の選定条件を満たしたのは豊橋であった。
明治40(1907)年3月,陸軍省は第15師団の設置を豊橋に決定した。翌明治41(1908)年11月に,第15師団は豊橋市に開庁式を行い,全市を挙げての師団歓迎気運が高まった。蚕糸業界の不況時,1万人の軍関係者による人口増加は,豊橋市の消費経済を刺激し軍都豊橋のスタートとなった。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
第15師団の誘致は,明治40(1907)年3月に持ち上がった。市制施行直後の豊橋市の将来発展策を模索している時であり,大きな期待が寄せられた。陸軍省は,日露戦争(1904~05)後,4個師団を増設すると発表した。そのうち1個師団は東海道筋に設置するということで,沼津,浜松,豊橋,岐阜が師団誘致に名乗りを挙げた。
初代豊橋市長大口喜六は,市議会と協力して陸軍省へ第15師団誘致を陳情した。豊橋市議会と総代会が「師団設置期成同盟会」を組織し,全市を挙げての誘致運動を盛り上げた。師団誘致運動は,浜松,豊橋,岐阜が激しく競い合ったが,「高師原」「天伯原」があり広大な大陸戦を想定する陸軍省の選定条件を満たしたのは豊橋であった。
明治40(1907)年3月,陸軍省は第15師団の設置を豊橋に決定した。翌明治41(1908)年11月に,第15師団は豊橋市に開庁式を行い,全市を挙げての師団歓迎気運が高まった。蚕糸業界の不況時,1万人の軍関係者による人口増加は,豊橋市の消費経済を刺激し軍都豊橋のスタートとなった。
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