じんのしんでん
牟呂村地先の富久縞(ふくしま)新田・明治新田の前面に広がる広大な寄州(よりす)は,干拓の適地として早くから注目されていた。明治18(1885)年,愛知県令として赴任した勝間田稔は,旧山口藩老で第百十国立銀行(赤間関銀行)頭取の毛利祥久に,この干拓事業を勧めた。
毛利祥久は,明治20(1887)年,「渥美郡牟呂村始メ六ヶ村地先開墾凡反別一千百町歩,此工費金拾弐万六千八百壱拾四円弐銭」の「海面築立開墾願」と「目論見書」を愛知県知事勝間田稔に提出した。賀茂用水を延長する用水路築造工事が行われ(明治21年6月完成),明治21(1888)年4月15日,新田築堤の起工式が行われた。明治22(1889)年7月5日・7日に,澪留(みおどめ)工事を行ったが,9月11日の暴風雨と津波によって堤防は破壊された。明治23(1890)年5月,築堤延長6729間,総面積1049町3反7畝が完工したが,工費は40万円に及んだといわれる。
明治23(1890)年には,牟呂用水の灌漑(かんがい)によって数町歩の試作に成功し,翌24(91)年には,植付反別は350余町となった。明治25(1892)年には,作付面積574町歩,移住者も130余戸に達した。しかし,明治25(1892)年9月4日暴風雨は高潮を伴って,毛利新田に壊滅的な打撃を与えた。毛利新田の大手堤防と柳生川堤防が決壊して修復の目処(めど)が立たず,毛利祥久は,再築を断念した。明治26(1893)年4月14日,海部郡江西村(海部郡八開村江西)出身の商業資本家神野金之助(1849~1922)に4万1000円で売却した。
毛利新田の失敗は,延長1里余の防波堤の決壊であったので,堤身を6尺高めて4間(後さらに3尺高くした)とし,服部長七の人造石(たたき)工事を築堤に採用した。明治26(1893)年9月16日,澪留を決行し,翌日,他の2か所の工事も完成した。牟呂用水樋門3万4500円,人造石築堤4300間18万5000円の予算を組んだ。総工費は70万円とも90万円ともいわれる。
明治26(1893)年には,約80町歩の水田に植付け,秋には約1000俵の収穫があった。明治27(1894)年には,300余町歩から4000俵,同28(95)年には550町歩で8000俵の収穫に達した。入植者も,明治29(1896)年ごろまでは,通い作であったが,翌30(97)年以後には,居住小作人が200戸を超えた。明治28(1895)年6月には,牟呂村・磯辺村・大崎村各村会の議決を経て吉田新田を神野新田と改称した。明治29(1896)年4月15日,神野新田開墾成工式を行った。
神野新田は,明治38(1905)年,神野家の直営から神野富田殖産会社,大正7(1918)年,神富殖産会社を経て,昭和8(1933)年以来,神野新田土地株式会杜の経営するところであった。第2次世界大戦後,昭和21(1946)年5月8日,農地解放が行われ,650町歩の土地に500余人の自作農が創設された。昭和28(1953)年9月25日,台風13号の襲来によって,神野新田・吉前新田の堤防2713m(うち全壊394m)を破壊し,その復旧に10年の歳月と13億円の巨費を要した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
牟呂村地先の富久縞(ふくしま)新田・明治新田の前面に広がる広大な寄州(よりす)は,干拓の適地として早くから注目されていた。明治18(1885)年,愛知県令として赴任した勝間田稔は,旧山口藩老で第百十国立銀行(赤間関銀行)頭取の毛利祥久に,この干拓事業を勧めた。
毛利祥久は,明治20(1887)年,「渥美郡牟呂村始メ六ヶ村地先開墾凡反別一千百町歩,此工費金拾弐万六千八百壱拾四円弐銭」の「海面築立開墾願」と「目論見書」を愛知県知事勝間田稔に提出した。賀茂用水を延長する用水路築造工事が行われ(明治21年6月完成),明治21(1888)年4月15日,新田築堤の起工式が行われた。明治22(1889)年7月5日・7日に,澪留(みおどめ)工事を行ったが,9月11日の暴風雨と津波によって堤防は破壊された。明治23(1890)年5月,築堤延長6729間,総面積1049町3反7畝が完工したが,工費は40万円に及んだといわれる。
明治23(1890)年には,牟呂用水の灌漑(かんがい)によって数町歩の試作に成功し,翌24(91)年には,植付反別は350余町となった。明治25(1892)年には,作付面積574町歩,移住者も130余戸に達した。しかし,明治25(1892)年9月4日暴風雨は高潮を伴って,毛利新田に壊滅的な打撃を与えた。毛利新田の大手堤防と柳生川堤防が決壊して修復の目処(めど)が立たず,毛利祥久は,再築を断念した。明治26(1893)年4月14日,海部郡江西村(海部郡八開村江西)出身の商業資本家神野金之助(1849~1922)に4万1000円で売却した。
毛利新田の失敗は,延長1里余の防波堤の決壊であったので,堤身を6尺高めて4間(後さらに3尺高くした)とし,服部長七の人造石(たたき)工事を築堤に採用した。明治26(1893)年9月16日,澪留を決行し,翌日,他の2か所の工事も完成した。牟呂用水樋門3万4500円,人造石築堤4300間18万5000円の予算を組んだ。総工費は70万円とも90万円ともいわれる。
明治26(1893)年には,約80町歩の水田に植付け,秋には約1000俵の収穫があった。明治27(1894)年には,300余町歩から4000俵,同28(95)年には550町歩で8000俵の収穫に達した。入植者も,明治29(1896)年ごろまでは,通い作であったが,翌30(97)年以後には,居住小作人が200戸を超えた。明治28(1895)年6月には,牟呂村・磯辺村・大崎村各村会の議決を経て吉田新田を神野新田と改称した。明治29(1896)年4月15日,神野新田開墾成工式を行った。
神野新田は,明治38(1905)年,神野家の直営から神野富田殖産会社,大正7(1918)年,神富殖産会社を経て,昭和8(1933)年以来,神野新田土地株式会杜の経営するところであった。第2次世界大戦後,昭和21(1946)年5月8日,農地解放が行われ,650町歩の土地に500余人の自作農が創設された。昭和28(1953)年9月25日,台風13号の襲来によって,神野新田・吉前新田の堤防2713m(うち全壊394m)を破壊し,その復旧に10年の歳月と13億円の巨費を要した。
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