むろむらのゆらい
和銅元(708)年春3月,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の海岸に打ち寄せられた1艘(そう)の船があった。5人の男女が乗っていた。都から追われた開元親王とその乳母人(めのと),官女,従者2人であった。村人は一行を助け上げ,新しい御殿を建てて住まわせ,開元親王を王様と呼んだ。御殿のある場所の西南に王を守護する人たちが住んでいたので王守(通称大森)といい,その西に当たる村を王西(大西),開元親王が船から上がられた場所を王海津(大海津),小屋がけした所の北東にあたる村を外神(とがみ)といった。
王家は年々栄えたが,これが都に聞こえ,追手の軍勢が攻め寄せ,戦乱の中で開元親王は討ち死にした。時に,天平4(732)年正月であった。官女は自害し,官女を葬った塚を弁天塚,開元親王を葬った塚を王塚と称した。弁天塚は繁昌し,遠近より詣でる人が訪れ市をなしたという。ここを市場といい,王塚と市場の間の村を中村と名付けた。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
和銅元(708)年春3月,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の海岸に打ち寄せられた1艘(そう)の船があった。5人の男女が乗っていた。都から追われた開元親王とその乳母人(めのと),官女,従者2人であった。村人は一行を助け上げ,新しい御殿を建てて住まわせ,開元親王を王様と呼んだ。御殿のある場所の西南に王を守護する人たちが住んでいたので王守(通称大森)といい,その西に当たる村を王西(大西),開元親王が船から上がられた場所を王海津(大海津),小屋がけした所の北東にあたる村を外神(とがみ)といった。
王家は年々栄えたが,これが都に聞こえ,追手の軍勢が攻め寄せ,戦乱の中で開元親王は討ち死にした。時に,天平4(732)年正月であった。官女は自害し,官女を葬った塚を弁天塚,開元親王を葬った塚を王塚と称した。弁天塚は繁昌し,遠近より詣でる人が訪れ市をなしたという。ここを市場といい,王塚と市場の間の村を中村と名付けた。
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