わたなべ・しょうか(1835~87)
渡辺小華は,天保6(1835)年1月7日,三河田原藩士渡辺崋山の2男として,江戸の藩邸に生まれた。名諧,小華と号した。弘化4(1847)年,江戸に出て椿椿山(つばきちんざん)に画を学んだ。兄・立が早世したため,安政3(1856)年,家督を継ぐ。文久元(1861)年,椿椿山の養女須磨と結婚した。元治元(1864)年,年寄役となり,高80石を受ける。明治2(1869)年には,田原藩権大参事に任じられた。明治7(1874)年,豊橋へ移り,同10(77)年,百花園付近に寓居して,文人墨客と交わった。明治15(1882)年,上京して画作に励んだ。明治20(1887)年12月29日,没した。
渡辺小華夫人須磨(1839~97)は,天保10(1839)年4月3日,松尾氏の2女に生まれ,椿椿山の養女となった。須磨婦人は,晩年田原に閑居し,渡辺崋山の遺墨を整理した。明治30(1897)年5月9日,没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
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渡辺小華は,天保6(1835)年1月7日,三河田原藩士渡辺崋山の2男として,江戸の藩邸に生まれた。名諧,小華と号した。弘化4(1847)年,江戸に出て椿椿山(つばきちんざん)に画を学んだ。兄・立が早世したため,安政3(1856)年,家督を継ぐ。文久元(1861)年,椿椿山の養女須磨と結婚した。元治元(1864)年,年寄役となり,高80石を受ける。明治2(1869)年には,田原藩権大参事に任じられた。明治7(1874)年,豊橋へ移り,同10(77)年,百花園付近に寓居して,文人墨客と交わった。明治15(1882)年,上京して画作に励んだ。明治20(1887)年12月29日,没した。
渡辺小華夫人須磨(1839~97)は,天保10(1839)年4月3日,松尾氏の2女に生まれ,椿椿山の養女となった。須磨婦人は,晩年田原に閑居し,渡辺崋山の遺墨を整理した。明治30(1897)年5月9日,没した。
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