あさい・よじえもん(?~1640)
浅井与次右衛門は,戦国時代の北近江の戦国大名である浅井長政の重臣であった。天正元(1573)年8月,織田信長は浅井の小谷(おだに)城を滅亡させた。小谷城落城後,浅井与次右衛門は一族郎党83人を引きつれ,吉田(豊橋)の四ッ谷(船町)に来て豊川(とよがわ)沿岸に仮寓した。その後,天正18(1590)年,吉田城主池田輝政より定住を許され,庄屋役を命じられ,以後,四ッ谷を船町と改めて町の開発を行った。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に際して,城主池田輝政より船役を命じられた。この功により,城主池田輝政から以後も船役を命ぜられる。また,地子免除並びに船番組の特権が与えられた。船町の所有する船数は,正徳2(1712)年には,江戸廻(かい)船4艘(そう),伊勢尾張通船17艘があった。この船を用いて伊勢をはじめ江戸への航路の起点として,船町は繁栄を極めた。寛永17(1640)年1月27日,没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
浅井与次右衛門は,戦国時代の北近江の戦国大名である浅井長政の重臣であった。天正元(1573)年8月,織田信長は浅井の小谷(おだに)城を滅亡させた。小谷城落城後,浅井与次右衛門は一族郎党83人を引きつれ,吉田(豊橋)の四ッ谷(船町)に来て豊川(とよがわ)沿岸に仮寓した。その後,天正18(1590)年,吉田城主池田輝政より定住を許され,庄屋役を命じられ,以後,四ッ谷を船町と改めて町の開発を行った。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に際して,城主池田輝政より船役を命じられた。この功により,城主池田輝政から以後も船役を命ぜられる。また,地子免除並びに船番組の特権が与えられた。船町の所有する船数は,正徳2(1712)年には,江戸廻(かい)船4艘(そう),伊勢尾張通船17艘があった。この船を用いて伊勢をはじめ江戸への航路の起点として,船町は繁栄を極めた。寛永17(1640)年1月27日,没した。
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