つだしょうがっこう
豊橋市立津田小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第37番小学鹿菅(しかすが)学校として瓜郷村の満光寺を校舎として,瓜郷村・下五井村・横須賀村・清須新田・薮下新田・小坂井村・大蚊里(おがさと)村を通学区域として発足したことに始まる。明治8(1875)年,鹿菅学校を廃止して,横須賀村の歓喜寺を校舎として横須賀・薮下新田・清須新田を通学区域とする横須賀学校,下五井村の地蔵堂に下五井村・瓜郷村を通学区域とする下五井学校となった。横須賀学校は,明治9(1876)年,川崎村・薮下新田・横須賀村を通学区域とし,津田学校と改称した。明治12(1879)年,津田村宮元(豊橋市横須賀町宮元)に校舎を新築・移転する。清須新田は平井学校に編入した。明治17(1884)年,下五井学校は津田学校に合併され,清須新田を通学区域に編入した。明治20(1887)年4月,宝飯(ほい)郡尋常小学津田学校と改称する。
明治25(1892)年10月,鹿菅村立鹿菅尋常小学校と改称する。明治26(1893)年,高等科を設置して鹿菅尋常高等小学校と改称する。明治40(1907)年3月,高等科を下地尋常高等小学校に編入し,通学区域を宝飯郡下地町津田・下五井・瓜郷・清須新田とし,宝飯郡津田尋常小学校と改称した。大正15(1926)年9月4日,暴風雨のため校舎1棟が倒壊し,児童18人が遭難死した。昭和7(32)年,豊橋市津田小学校,同16(41)年,豊橋市津田国民学校,同22(47)年,豊橋市立津田小学校と改称した。昭和46(71)年,校舎の鉄筋コンクリート化が完成した。昭和49(1974)年6月3日,火災のため木造校舎(職員室・講堂・教室など)を焼失した。平成17(2005)年度,児童数259(9学級)。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
豊橋市立津田小学校は,明治6(1873)年10月,第10中学区第37番小学鹿菅(しかすが)学校として瓜郷村の満光寺を校舎として,瓜郷村・下五井村・横須賀村・清須新田・薮下新田・小坂井村・大蚊里(おがさと)村を通学区域として発足したことに始まる。明治8(1875)年,鹿菅学校を廃止して,横須賀村の歓喜寺を校舎として横須賀・薮下新田・清須新田を通学区域とする横須賀学校,下五井村の地蔵堂に下五井村・瓜郷村を通学区域とする下五井学校となった。横須賀学校は,明治9(1876)年,川崎村・薮下新田・横須賀村を通学区域とし,津田学校と改称した。明治12(1879)年,津田村宮元(豊橋市横須賀町宮元)に校舎を新築・移転する。清須新田は平井学校に編入した。明治17(1884)年,下五井学校は津田学校に合併され,清須新田を通学区域に編入した。明治20(1887)年4月,宝飯(ほい)郡尋常小学津田学校と改称する。
明治25(1892)年10月,鹿菅村立鹿菅尋常小学校と改称する。明治26(1893)年,高等科を設置して鹿菅尋常高等小学校と改称する。明治40(1907)年3月,高等科を下地尋常高等小学校に編入し,通学区域を宝飯郡下地町津田・下五井・瓜郷・清須新田とし,宝飯郡津田尋常小学校と改称した。大正15(1926)年9月4日,暴風雨のため校舎1棟が倒壊し,児童18人が遭難死した。昭和7(32)年,豊橋市津田小学校,同16(41)年,豊橋市津田国民学校,同22(47)年,豊橋市立津田小学校と改称した。昭和46(71)年,校舎の鉄筋コンクリート化が完成した。昭和49(1974)年6月3日,火災のため木造校舎(職員室・講堂・教室など)を焼失した。平成17(2005)年度,児童数259(9学級)。
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豊橋市議の長坂です。
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