つだしょうがっこうこうしゃとうかい
津田小学校校舎倒壊は,大正15(1926)年9月4日9時30分,東三河地域の悪天候により起こった。この日,早朝から暴風雨が東三河地方を襲っていたため,津田小学校登校児童数は全校児童197人中124人であった。このうち105人の児童が3年前に新築した校舎に集合して,風雨の鎮静化を待っていたが,突然校舎の東側から倒壊が始まり,瞬時に児童たちが下敷きになった。倒壊により,即死7人を含む19人が死亡(内1人は治療中死亡),重軽傷者42人という惨事となった。
全国から寄せられた義援金の一部で,昭和7(1932)年,校門の左に「遭難惨死学童之碑」(高さ3.7m,幅1.35m)が建立された。題額は陸軍大将宇垣一成で,正面に18人の児童の氏名,裏面に殉難(じゅんなん)銘(めい)が刻まれている。大正15(1926)年9月5日の新朝報は,「下地町津田学校倒壊し児童百名下敷きとなる」という見出しで,この災害を報じている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
津田小学校校舎倒壊は,大正15(1926)年9月4日9時30分,東三河地域の悪天候により起こった。この日,早朝から暴風雨が東三河地方を襲っていたため,津田小学校登校児童数は全校児童197人中124人であった。このうち105人の児童が3年前に新築した校舎に集合して,風雨の鎮静化を待っていたが,突然校舎の東側から倒壊が始まり,瞬時に児童たちが下敷きになった。倒壊により,即死7人を含む19人が死亡(内1人は治療中死亡),重軽傷者42人という惨事となった。
全国から寄せられた義援金の一部で,昭和7(1932)年,校門の左に「遭難惨死学童之碑」(高さ3.7m,幅1.35m)が建立された。題額は陸軍大将宇垣一成で,正面に18人の児童の氏名,裏面に殉難(じゅんなん)銘(めい)が刻まれている。大正15(1926)年9月5日の新朝報は,「下地町津田学校倒壊し児童百名下敷きとなる」という見出しで,この災害を報じている。
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