かわい・ろくろう(1902~76)
河合陸郎は,明治35(1902)年3月1日,渥美郡豊橋町(豊橋市飽海(あくみ)町)に白井又蔵の6男として生まれた。6歳の時,豊橋市札木町の叔母河合しげの養嗣子となった。大正5(1916)年八町高等小学校を卒業し,大阪で働き,YMCA夜間英語学校などに通った。大正9(1920)年豊橋にもどり,翌10(21)年日刊新聞新朝報へ入社した。昭和4(1929)年主筆となり,西進策の名で健筆を振るった。この間,野口品二・浅井秀雄・福沢卯介らと黒墓土(くろぽと)社を創立した。また,昭和3(1928)年には東三自治研究会を結成して,常任幹事となった。
昭和11(1936)年,豊橋市会議員に当選した。議員活動と同時に新朝報社の経営にあたるが,昭和13(1938)年市内各新聞の一斉廃刊と豊橋同盟新聞発行に伴い,豊橋同盟新聞のコラムを執筆した。豊橋市会議員は1期でやめ,豊橋養魚販売購買利用組合,神野新田土地会社に勤務した。昭和22(1947)年4月,愛知県会議員に当選した。その後,4期連続当選した。昭和35(1960)年から4期15年余を,豊橋市長として三河港整備・臨海工業地帯造成など,産業基盤の強化に尽力した。昭和51(1976)年12月20日,没した。
参考文献 - 河合陸郎伝編纂委員会「河合陸郎伝」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
河合陸郎は,明治35(1902)年3月1日,渥美郡豊橋町(豊橋市飽海(あくみ)町)に白井又蔵の6男として生まれた。6歳の時,豊橋市札木町の叔母河合しげの養嗣子となった。大正5(1916)年八町高等小学校を卒業し,大阪で働き,YMCA夜間英語学校などに通った。大正9(1920)年豊橋にもどり,翌10(21)年日刊新聞新朝報へ入社した。昭和4(1929)年主筆となり,西進策の名で健筆を振るった。この間,野口品二・浅井秀雄・福沢卯介らと黒墓土(くろぽと)社を創立した。また,昭和3(1928)年には東三自治研究会を結成して,常任幹事となった。
昭和11(1936)年,豊橋市会議員に当選した。議員活動と同時に新朝報社の経営にあたるが,昭和13(1938)年市内各新聞の一斉廃刊と豊橋同盟新聞発行に伴い,豊橋同盟新聞のコラムを執筆した。豊橋市会議員は1期でやめ,豊橋養魚販売購買利用組合,神野新田土地会社に勤務した。昭和22(1947)年4月,愛知県会議員に当選した。その後,4期連続当選した。昭和35(1960)年から4期15年余を,豊橋市長として三河港整備・臨海工業地帯造成など,産業基盤の強化に尽力した。昭和51(1976)年12月20日,没した。
参考文献 - 河合陸郎伝編纂委員会「河合陸郎伝」
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豊橋市議の長坂です。
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