もりた・みつひろ(1825頃~98)
森田光尋は,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の八幡宮神主森田光義の子に生まれた。弘化2(1845)年,平田篤胤(あつたね)門に入る。嘉永期(1848~54)から明治5(1872)年まで,寺子屋を開いた。嘉永2(1849)年から数年の間に,「万葉長歌抄」「万葉集植物歌抄」などを編纂した。嘉永7(1854)年,御朱印改に新銭町白山権現神主鈴木宮内,多米村春日大神宮尾崎相模とともに出府した「道中記」が残る。元治2(1865)年,正一位八幡社の神階を受けた。森田家文書「留書」の中に,慶応3(1867)年7月14日,牟呂村にお札降りがあり,いわゆる「ええじゃないか」の発端になった事象について触れている。明治31(1898)年10月5日,74歳で没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
森田光尋は,渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂町)の八幡宮神主森田光義の子に生まれた。弘化2(1845)年,平田篤胤(あつたね)門に入る。嘉永期(1848~54)から明治5(1872)年まで,寺子屋を開いた。嘉永2(1849)年から数年の間に,「万葉長歌抄」「万葉集植物歌抄」などを編纂した。嘉永7(1854)年,御朱印改に新銭町白山権現神主鈴木宮内,多米村春日大神宮尾崎相模とともに出府した「道中記」が残る。元治2(1865)年,正一位八幡社の神階を受けた。森田家文書「留書」の中に,慶応3(1867)年7月14日,牟呂村にお札降りがあり,いわゆる「ええじゃないか」の発端になった事象について触れている。明治31(1898)年10月5日,74歳で没した。
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