まつだいら・いえきよ(1566~1610)
松平家清は,永禄9(1566)年,竹谷松平清宗の嫡男として三河竹谷(蒲郡市)に生まれた。天正9(1581)年,元服し,家康の一字を賜り家清と名乗った。妻は久松俊勝の息女・於きんの方で,妻の母は伝通院於大(おだい)の方,すなわち徳川家康の実母である。天正10(1582)年,父から本領竹谷を譲られた。天正18(1590)年,小田原攻略に参加した。その後,関東移封に際して武蔵国八幡山(埼玉県児玉郡児玉町)1万石の城主となった。関ヶ原合戦に際し,尾張清州城番を担当した。慶長6(1601)年,吉田(豊橋)3万石の城主となった。慶長7(1602)年暮には徳川家康に従って上洛し,翌8(03)年,征夷大将軍宣下の際には供奉(ぐぶ)を務めた。
松平家清は,慶長15(1610)年12月21日,45歳で没し,遺領は嫡子・松平忠清(1585~1612)が継いだ。しかし,松平忠清は,慶長17(1612)年,嗣子なくして没した。絶家となるところ,竹谷松平氏の断絶を惜しみ,松平忠清の弟・松平清昌を西郡(にしのこおり)(蒲郡市)5000石,交替寄合とした。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
松平家清は,永禄9(1566)年,竹谷松平清宗の嫡男として三河竹谷(蒲郡市)に生まれた。天正9(1581)年,元服し,家康の一字を賜り家清と名乗った。妻は久松俊勝の息女・於きんの方で,妻の母は伝通院於大(おだい)の方,すなわち徳川家康の実母である。天正10(1582)年,父から本領竹谷を譲られた。天正18(1590)年,小田原攻略に参加した。その後,関東移封に際して武蔵国八幡山(埼玉県児玉郡児玉町)1万石の城主となった。関ヶ原合戦に際し,尾張清州城番を担当した。慶長6(1601)年,吉田(豊橋)3万石の城主となった。慶長7(1602)年暮には徳川家康に従って上洛し,翌8(03)年,征夷大将軍宣下の際には供奉(ぐぶ)を務めた。
松平家清は,慶長15(1610)年12月21日,45歳で没し,遺領は嫡子・松平忠清(1585~1612)が継いだ。しかし,松平忠清は,慶長17(1612)年,嗣子なくして没した。絶家となるところ,竹谷松平氏の断絶を惜しみ,松平忠清の弟・松平清昌を西郡(にしのこおり)(蒲郡市)5000石,交替寄合とした。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!