まつだいら・のぶあきら(1763~1817)

 松平(大河内)信明は,宝暦13(1763)年2月10日,松平(大河内)信礼(のぶうや)の庶子として生まれたが,明和6(1769)年,嫡子となり,翌7(70)年6月22日,松平信礼が没すると家督を継ぎ,吉田(豊橋)7万石を襲封した。松平信明は襲封した時わずか7歳であった(「寛政重修諸家譜」では宝暦10年生まれであるが,「大河内家譜」では宝暦13年生まれ)。藩主としてはじめて吉田に入った安永8(1779)年には,吉田本町から出火した大火(宗淳火事)に見舞われた。これが契機となり,天明3(1783)年に,火消組が設置された。天明4(1784)年,奏者番に任命された。天明7(1787)年,松平定信が老中首座となり,翌8(88)年,松平信明は側用人に任命された。ついで老中に就任して奥掛をも兼務した。寛政5(1793)年,松平定信が老中を辞任するとかわって,松平信明が老中首座となった。北辺問題が多難な時期の寛政10(1798)年,最上徳内・近藤重蔵などに蝦夷地の調査を命じた。東蝦夷を幕府の直轄地とし,伊能忠敬に蝦夷測量を行わせた。享和3(1803)年,老中を辞職した。しかし,文化3(1806)年,ふたたび老中首座を命ぜられ,北辺問題に腐心した。文化14(1817)年8月16日,現職で没した。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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