まつだいら・のぶひさ(1829~88)
松平(大河内)信古は,文政12(1829)年4月23日,越前国鯖江(鯖江市)藩主間部詮勝(まなべあきかつ)の2男に生まれた。嘉永2(1849)年7月27日,松平(大河内)信璋(のぶあき)の没後,末期養子として吉田(豊橋)藩主に迎えられた。嘉永6(1853)年,ペリーの率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し,吉田藩では幕府の和親政策とは反対に,攘夷論が盛んとなり,百々(どうどう)村(田原市六連(むつれ)町)に防塁を築き,大砲を据えた。松平信古は,安政6(1859)年,寺社奉行に任ぜられる。文久2(1862)年には,大坂城代に任ぜられた。しかし,元治2(1865)年,大坂城代を解かれ溜間詰となった。慶応3(1867)年,15代将軍徳川慶喜は,大政を朝廷に奉還した。慶応4(1868)年,戊辰戦争が始まり,征東軍が東海道を東下してきた。吉田藩は,勤皇の立場を明らかにした尾張藩と接触したことにより,征東軍の命を受けて各地に出兵,兵糧の確保と輸送を分担した。すでに,本姓・大河内に復していた信古は,明治2(1869)年,吉田改め豊橋藩知事となる。明治4(1871)年,廃藩置県によって知事を免ぜられ,子爵となって東京に移住した。明治21(1888)年11月25日,没した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
松平(大河内)信古は,文政12(1829)年4月23日,越前国鯖江(鯖江市)藩主間部詮勝(まなべあきかつ)の2男に生まれた。嘉永2(1849)年7月27日,松平(大河内)信璋(のぶあき)の没後,末期養子として吉田(豊橋)藩主に迎えられた。嘉永6(1853)年,ペリーの率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し,吉田藩では幕府の和親政策とは反対に,攘夷論が盛んとなり,百々(どうどう)村(田原市六連(むつれ)町)に防塁を築き,大砲を据えた。松平信古は,安政6(1859)年,寺社奉行に任ぜられる。文久2(1862)年には,大坂城代に任ぜられた。しかし,元治2(1865)年,大坂城代を解かれ溜間詰となった。慶応3(1867)年,15代将軍徳川慶喜は,大政を朝廷に奉還した。慶応4(1868)年,戊辰戦争が始まり,征東軍が東海道を東下してきた。吉田藩は,勤皇の立場を明らかにした尾張藩と接触したことにより,征東軍の命を受けて各地に出兵,兵糧の確保と輸送を分担した。すでに,本姓・大河内に復していた信古は,明治2(1869)年,吉田改め豊橋藩知事となる。明治4(1871)年,廃藩置県によって知事を免ぜられ,子爵となって東京に移住した。明治21(1888)年11月25日,没した。
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