まつばらようすい
松原用水は,豊川(とよがわ)右岸の水田約800haを灌漑する農業用水で,豊川用水事業に併合されている。昭和43(1968)年に愛知用水公団の事業として完成した牟呂松原頭首工(新城市一鍬田(ひとくわだ))で豊川から取水し,牟呂松原幹線水路を5.3㎞流下した後,豊橋市賀茂町で牟呂用水と松原用水に分かれ,松原用水は豊川をサイホンで潜り,右岸に出て約12㎞を流れ,再び豊川に落水する。
松原用水の開鑿は,永禄10(1567)年に吉田(豊橋)城主酒井忠次よって着手され,池田輝政によって完成されたと伝えられている。その後,豊川の洪水によって橋尾(宝飯郡一宮町)より堰を移設し,明治2(1869)年に松原(宝飯郡一宮町)に堰が設けられたため,松原用水と呼ばれるようになった。この堰は,豊川の洪水でたびたび決壊し,利害が相反する上流と下流の村々で争いが起こった。松原用水は,別名を大村井水(地元では井川という)ともいい,豊橋市大村町の八所神社には,この用水の開鑿に功労のあった8人の義士の物語が伝説化され,祭神として祀られている。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
松原用水は,豊川(とよがわ)右岸の水田約800haを灌漑する農業用水で,豊川用水事業に併合されている。昭和43(1968)年に愛知用水公団の事業として完成した牟呂松原頭首工(新城市一鍬田(ひとくわだ))で豊川から取水し,牟呂松原幹線水路を5.3㎞流下した後,豊橋市賀茂町で牟呂用水と松原用水に分かれ,松原用水は豊川をサイホンで潜り,右岸に出て約12㎞を流れ,再び豊川に落水する。
松原用水の開鑿は,永禄10(1567)年に吉田(豊橋)城主酒井忠次よって着手され,池田輝政によって完成されたと伝えられている。その後,豊川の洪水によって橋尾(宝飯郡一宮町)より堰を移設し,明治2(1869)年に松原(宝飯郡一宮町)に堰が設けられたため,松原用水と呼ばれるようになった。この堰は,豊川の洪水でたびたび決壊し,利害が相反する上流と下流の村々で争いが起こった。松原用水は,別名を大村井水(地元では井川という)ともいい,豊橋市大村町の八所神社には,この用水の開鑿に功労のあった8人の義士の物語が伝説化され,祭神として祀られている。
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