とうなんかいじしん
東南海地震は,昭和19(1944)年12月7日午後1時30分ごろ熊野灘沖の北緯33.8度,東経136.6度を震源地として発生した。マグニチュード8.0,震度5であった(「愛知県災害誌」)。北海道・東北地方から九州にいたる広い範囲で人体に震動を感じた。紀伊半島の東部,伊勢湾周辺・熊野灘沿岸でとくに震動が激しかった。このうち被害の大きかったのは,静岡,愛知,三重の各県下で,岐阜,奈良,滋賀の各県にも被害がおよんだ。
愛知県下では,名古屋,半田,豊橋の各都市と碧海,幡豆,知多,渥美の各郡の伊勢湾沿岸および三河湾沿岸部に被害が集中した。死者871人,負傷者1859人,住宅の全壊1万3586戸に達した。渥美郡を中心とした被害は大きかったが,豊橋市内においては,一部工場の倒壊があったが,家屋の被害は軽微であった。この地震で半田市の中島飛行機の工場が倒壊して勤労動員中の生徒が多数死亡した。豊橋市立高等女学校の生徒23人,愛知和洋女学校の生徒3人が圧死した。また,豊橋市の太陽航空工場に勤労働員された愛知県豊橋中学校の生徒1人が圧死した。
地震にともなって発生した津波が太平洋沿岸各地に襲来し,伊豆半島から紀伊半島にかけて被害が大きかった。とくに熊野灘沿岸で最大波高5~9mに達し,被害は甚大であった。振幅が緩やかであったことと,昼間の発生であったため,退避する余裕もあって,地震の規模に比較して死者が少なかったとされている。おりしも第2次世界大戦中だったので,詳細な報道や統計の収集が控えられた。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
東南海地震は,昭和19(1944)年12月7日午後1時30分ごろ熊野灘沖の北緯33.8度,東経136.6度を震源地として発生した。マグニチュード8.0,震度5であった(「愛知県災害誌」)。北海道・東北地方から九州にいたる広い範囲で人体に震動を感じた。紀伊半島の東部,伊勢湾周辺・熊野灘沿岸でとくに震動が激しかった。このうち被害の大きかったのは,静岡,愛知,三重の各県下で,岐阜,奈良,滋賀の各県にも被害がおよんだ。
愛知県下では,名古屋,半田,豊橋の各都市と碧海,幡豆,知多,渥美の各郡の伊勢湾沿岸および三河湾沿岸部に被害が集中した。死者871人,負傷者1859人,住宅の全壊1万3586戸に達した。渥美郡を中心とした被害は大きかったが,豊橋市内においては,一部工場の倒壊があったが,家屋の被害は軽微であった。この地震で半田市の中島飛行機の工場が倒壊して勤労動員中の生徒が多数死亡した。豊橋市立高等女学校の生徒23人,愛知和洋女学校の生徒3人が圧死した。また,豊橋市の太陽航空工場に勤労働員された愛知県豊橋中学校の生徒1人が圧死した。
地震にともなって発生した津波が太平洋沿岸各地に襲来し,伊豆半島から紀伊半島にかけて被害が大きかった。とくに熊野灘沿岸で最大波高5~9mに達し,被害は甚大であった。振幅が緩やかであったことと,昼間の発生であったため,退避する余裕もあって,地震の規模に比較して死者が少なかったとされている。おりしも第2次世界大戦中だったので,詳細な報道や統計の収集が控えられた。
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豊橋市議の長坂です。
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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
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