とうこうじ(ななね)
医王山東光寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,13世紀初頭と推測され,天台宗を経て臨済宗の建長寺派であった。本尊は当初,薬師如来坐像であったが後述の移転を期に釈迦如来坐像を祀る。創立以来の経過は不明であるが,元亀3(1572)年東観音寺中興玉岫(ぎょくしゅう)和尚が再興して妙心寺派になった。寺域は古来より海岸部に位置していた。
宝永4(1707)年の大地震津波により伽藍(がらん)が埋没した。その本堂については明治43(1910)年の当寺届出には「本堂六間五間寛文年中(1661~72)建立」とある。その後北方の地(東七根中屋敷)に移転したが,ほどなくして火災により焼失し,現在地(豊橋市東七根町北浦)に再移転して,正徳元(1711)年朝倉源五右衛門の寄進で伽藍の再興をみた。第2次世界大戦中は農繁期託児所を開設していた。昭和23(1948)年開山堂建立,同58(83)年庫裏(くり)を改築した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
医王山東光寺(臨済宗妙心寺派)の創立は,13世紀初頭と推測され,天台宗を経て臨済宗の建長寺派であった。本尊は当初,薬師如来坐像であったが後述の移転を期に釈迦如来坐像を祀る。創立以来の経過は不明であるが,元亀3(1572)年東観音寺中興玉岫(ぎょくしゅう)和尚が再興して妙心寺派になった。寺域は古来より海岸部に位置していた。
宝永4(1707)年の大地震津波により伽藍(がらん)が埋没した。その本堂については明治43(1910)年の当寺届出には「本堂六間五間寛文年中(1661~72)建立」とある。その後北方の地(東七根中屋敷)に移転したが,ほどなくして火災により焼失し,現在地(豊橋市東七根町北浦)に再移転して,正徳元(1711)年朝倉源五右衛門の寄進で伽藍の再興をみた。第2次世界大戦中は農繁期託児所を開設していた。昭和23(1948)年開山堂建立,同58(83)年庫裏(くり)を改築した。
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