ひがしいこべむら
伊古部村は,江戸幕府成立時は幕府領であったが,元和9(1623)年旗本戸田次郎九郎領となった。寛文2(1662)年,戸田数馬に西伊古部村122石を分知したので東・西伊古部村となった。東伊古部村は,寛永4(1627)年から豊後日田(大分県日田市)藩領となり,同9(32)年幕府領に復した。天和元(1681)年鳥羽藩領に編入され,享保10(1725)年幕府領に復し,天明2(1782)年から享和3(1803)年まで旗本曲渕家領であった。享和3(1803)年から,幕末まで幕府領であった。渥美郡伊古部村の村高は「三河国村々高附」(寛永期)に伊古部村183石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に東伊古部村中泉支配所122石余とある。明治5(1872)年の東伊古部村の家数92,人数428であった。伊古部村の産土神(うぶすながみ)は,伊勢国伊雑宮(いざわのみや)を勧請して氏神としていたが,東西2村に分かれた時,東伊古部村は住吉大明神を氏神とした。寺院に,法蔵院がある。明治11(1878)年高塚村・東伊古部村・西伊古部村・赤沢村・万場新田・城下村が合併して豊南(となみ)村となったが,同17(84)年高塚村・伊古部村・赤沢村・豊南村となった。昭和30(1955)年に,大字伊古部は豊橋市東伊古部町・西伊古部町となった。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
伊古部村は,江戸幕府成立時は幕府領であったが,元和9(1623)年旗本戸田次郎九郎領となった。寛文2(1662)年,戸田数馬に西伊古部村122石を分知したので東・西伊古部村となった。東伊古部村は,寛永4(1627)年から豊後日田(大分県日田市)藩領となり,同9(32)年幕府領に復した。天和元(1681)年鳥羽藩領に編入され,享保10(1725)年幕府領に復し,天明2(1782)年から享和3(1803)年まで旗本曲渕家領であった。享和3(1803)年から,幕末まで幕府領であった。渥美郡伊古部村の村高は「三河国村々高附」(寛永期)に伊古部村183石余,「旧高旧領取調帳」(明治元年)に東伊古部村中泉支配所122石余とある。明治5(1872)年の東伊古部村の家数92,人数428であった。伊古部村の産土神(うぶすながみ)は,伊勢国伊雑宮(いざわのみや)を勧請して氏神としていたが,東西2村に分かれた時,東伊古部村は住吉大明神を氏神とした。寺院に,法蔵院がある。明治11(1878)年高塚村・東伊古部村・西伊古部村・赤沢村・万場新田・城下村が合併して豊南(となみ)村となったが,同17(84)年高塚村・伊古部村・赤沢村・豊南村となった。昭和30(1955)年に,大字伊古部は豊橋市東伊古部町・西伊古部町となった。
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