もくの・じんしち(1814~1904)
杢野甚七は,文化11(1814)年3月15日,宝飯郡前芝村(豊橋市前芝町)の杢野銀右衛門の子に生まれた。嘉永6(1853)年冬,蛤(はまぐり)を囲った葦簀(よしず)や竹・籐蔓(ふじつる)などに海苔(のり)が付着しているのを発見した。安政元(1854)年秋,椎・樫・栗・栃の木など5束を海中に挿して置いたところ,冬になって海苔の着生をみた。安政2(1855)年,吉田(豊橋)藩の了解を求め,翌3(56)年には,庄屋・組頭の賛同を得た。安政4(1857)年には,21人の海苔養殖仲間をつくり,12月には採取製造した乾海苔150枚を領主松平(大河内)信古(のぶひさ)に献上した。翌安政5(1858)年には,前芝村・梅薮村・日色野村・伊奈村・平井村・青木新田は同志を募って西浜に海苔養殖場を拡張した。
明治31(1898)年,前芝海岸に「海苔創業者杢野甚七碑」が建立された。明治37(1904)年8月3日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
関連項目 - 海苔養殖
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
杢野甚七は,文化11(1814)年3月15日,宝飯郡前芝村(豊橋市前芝町)の杢野銀右衛門の子に生まれた。嘉永6(1853)年冬,蛤(はまぐり)を囲った葦簀(よしず)や竹・籐蔓(ふじつる)などに海苔(のり)が付着しているのを発見した。安政元(1854)年秋,椎・樫・栗・栃の木など5束を海中に挿して置いたところ,冬になって海苔の着生をみた。安政2(1855)年,吉田(豊橋)藩の了解を求め,翌3(56)年には,庄屋・組頭の賛同を得た。安政4(1857)年には,21人の海苔養殖仲間をつくり,12月には採取製造した乾海苔150枚を領主松平(大河内)信古(のぶひさ)に献上した。翌安政5(1858)年には,前芝村・梅薮村・日色野村・伊奈村・平井村・青木新田は同志を募って西浜に海苔養殖場を拡張した。
明治31(1898)年,前芝海岸に「海苔創業者杢野甚七碑」が建立された。明治37(1904)年8月3日,没した。
参考文献 - 豊橋市立商業学校編「東三河産業功労者伝」
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