むらい・げんさい(1863~1927)
村井弦斎,本名寛は,文久3(1863)年12月18日,吉田(豊橋)藩の儒者の家柄に生まれた。上京して東京外国語学校でロシア語を学んだが,病気のため中退した。明治18(1885)年,アメリカに渡って苦学した。帰国後,実業家を志した。しかし,アメリカで知り合った報知新聞社長矢野文雄(竜渓)に迎えられて,明治21(1888)年,同社の客員として入社した。
明治23(1890)年「匿名投書家」を郵便報知新聞に連載した。その後,都新聞に「写真術」「深山の美人」などを連載した。アメリカから帰国後,最初に書いた「加利保留尼亜(カリホルニア)」はユートピア小説であるが,「深山の美人」はロストワールドものである。明治29(1896)年から同34(01)年にかけて,郵便報知新聞に連載された「日の出島」は発明小説で,写真師を目指して努力する青年が目標としているのがカラー写真という明治時代のSF小説である。「町医者」は,痣(あざ)の治療に苦労する医学テーマのSF小説である。
アメリカ滞在中にアメリカ人の合理化された家庭生活を見て,日本でも家庭生活の改善運動に取り組んだ。「食道楽」は,小説の形を借りてはいるが,日本人の生活改善を説いている。「婦人世界」の編集顧問として,当時の読物風の婦人雑誌を料理法などの実生活に即した記事中心の形式に変え,婦人雑誌の一方向を創造した。昭和2(1927)年7月30日,没した。
参考文献 - 横田順弥・会津信吾「新・日本SFこてん古典」
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
村井弦斎,本名寛は,文久3(1863)年12月18日,吉田(豊橋)藩の儒者の家柄に生まれた。上京して東京外国語学校でロシア語を学んだが,病気のため中退した。明治18(1885)年,アメリカに渡って苦学した。帰国後,実業家を志した。しかし,アメリカで知り合った報知新聞社長矢野文雄(竜渓)に迎えられて,明治21(1888)年,同社の客員として入社した。
明治23(1890)年「匿名投書家」を郵便報知新聞に連載した。その後,都新聞に「写真術」「深山の美人」などを連載した。アメリカから帰国後,最初に書いた「加利保留尼亜(カリホルニア)」はユートピア小説であるが,「深山の美人」はロストワールドものである。明治29(1896)年から同34(01)年にかけて,郵便報知新聞に連載された「日の出島」は発明小説で,写真師を目指して努力する青年が目標としているのがカラー写真という明治時代のSF小説である。「町医者」は,痣(あざ)の治療に苦労する医学テーマのSF小説である。
アメリカ滞在中にアメリカ人の合理化された家庭生活を見て,日本でも家庭生活の改善運動に取り組んだ。「食道楽」は,小説の形を借りてはいるが,日本人の生活改善を説いている。「婦人世界」の編集顧問として,当時の読物風の婦人雑誌を料理法などの実生活に即した記事中心の形式に変え,婦人雑誌の一方向を創造した。昭和2(1927)年7月30日,没した。
参考文献 - 横田順弥・会津信吾「新・日本SFこてん古典」
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