ちょうへん・ほういん(1668頃~1751)
昶遍法印は,寛文8(1668)年ごろ,吉田(豊橋)呉服町の林弥次右衛門景品の13男として生まれた。幼少のころ,普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に入って得度。名を教春といったが,後年,昶遍と改めた。
享保17(1732)年5月,普門寺成立の縁起を記した「三州船形山普門寺略縁起」が残されている。その後,高野山多聞院の住職となる。寛保2(1742)年9月,高野山金剛峯寺第303世座主となった。普門寺には,昶遍法印が金剛峯寺座主になった時の祝いとして送られた「桧皮(ひわだ)の衣」が残されている。
昶遍法印は座主としての任期を終えて,寿福院(金剛峯寺)に退隠し宝暦元(1751)年12月12日,83歳で示寂(じじゃく)した。昶遍法印の追善供養として林家から普門寺に「石灯籠」が寄進されている。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
昶遍法印は,寛文8(1668)年ごろ,吉田(豊橋)呉服町の林弥次右衛門景品の13男として生まれた。幼少のころ,普門寺(豊橋市雲谷(うのや)町)に入って得度。名を教春といったが,後年,昶遍と改めた。
享保17(1732)年5月,普門寺成立の縁起を記した「三州船形山普門寺略縁起」が残されている。その後,高野山多聞院の住職となる。寛保2(1742)年9月,高野山金剛峯寺第303世座主となった。普門寺には,昶遍法印が金剛峯寺座主になった時の祝いとして送られた「桧皮(ひわだ)の衣」が残されている。
昶遍法印は座主としての任期を終えて,寿福院(金剛峯寺)に退隠し宝暦元(1751)年12月12日,83歳で示寂(じじゃく)した。昶遍法印の追善供養として林家から普門寺に「石灯籠」が寄進されている。
- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!