とだ・むねみつ(?~1508)

 碧海郡上野荘(豊田市)にいた土豪の戸田宗光は,文明7(1475)年ごろ,渥美郡大津(豊橋市老津町)に入り,同12(1480)年ごろ田原(田原市田原町)に移った,明応2(1493)年ごろ牧野氏と今川氏に対峙するために,朝倉川左岸に仁連木(にれんぎ)城(豊橋市仁連木町)を築き,田原は子の憲光に委ねた。明応9(1500)年,船形山(豊橋市雲谷(うのや)町)の戦いに今川氏親(1470~1526)の将,朝比奈泰以に討ち取られたと従来いわれていたが,没したのは,永正5(1508)年ごろという。仁連木城主戸田憲光は,永正11(1514)年亡父・宗光(法名・全久)の菩提のため全久院(豊橋市東郷町)を開基した。

 仁連木城に対峙(たいじ)する今橋城(吉田城)が,永正2(1505)年牛久保(豊川市牛久保町)の牧野古白によって築城されたが,翌3(06)年田原城主戸田憲光が今橋城を奪っている。永正16(1519)年,今橋城は牧野成三に奪回された。その後,戸田氏は今橋城だけでなく,仁連木城をも放棄せざるを得なかったようである。戸田憲光は,大永7(1527)年まで知多郡河和城で存命したといわれる。松平清康(1511~35),広忠(1526~49)に従って,牛久保にいた戸田憲光の孫・宗光(康光)は,天文6(1537)年吉田(豊橋)城を奪回した。天文10(1541)年,仁連木城を修築して2男・宣光をここに移したという。天文15(1546)年には吉田城は今川氏の手に帰したが,戸田宣光は今川氏に従って安泰であったようである。

 永禄3(1560)年今川義元(1519~60)の戦死後,戸田康長は徳川氏に従い,天正18(1590)年徳川家康の関東移封に従って武蔵東方(ひがしかた)(埼玉県越谷市)1万石を領した。戸田康長の子孫(仁連木戸田氏)は,その後移封を重ね,信濃松本6万石で明治維新を迎えた。

 戸田忠次(田原戸田氏)は,徳川家康の関東移封に従って,天正18(1590)年伊豆下田5000石を与えられ,慶長6(1601)年三河田原1万1000石に封じられ,その子孫は移封を重ね,下野宇都宮7万7000石で明治維新を迎えた。

 戸田憲光の子実光(吉光)の孫・戸田定重の子孫(浪之上戸田氏)は,八名郡浪之上村(豊橋市牛川町)にとどまって郷士となった。戸田実光の子・重光は,今川氏の東三河17騎の戸田惣兵衛である。浪之上戸田氏・大垣戸田氏の二連木(にれんぎ)戸田氏とのつながりについては確実ではない。

 戸田憲光の子・氏一の子・戸田氏輝の子孫・戸田一西(大垣戸田氏)は,天正18(1590)年徳川家康の関東移封に従って,武蔵鯨井(くじらい)(埼玉県川越市)に5000石をあたえられた。慶長6(1601)年大津,翌7(02)年膳所に城を築いて3万石を領し,その子孫は美濃大垣10万石の藩主として明治維新を迎えた。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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