ごしんじ
孤峰山悟真寺(浄土宗)の創立は,貞治5(1366)年で,開山は善忠寂翁上人である。善忠上人は浄土宗藤田派4代唱名上人の高弟,仏法を広めるため関東から三州今橋(豊橋)に来て奇瑞(きずい)があってその地に一寺を建立し,浄業院悟真寺と称した。建立地は現在の吉田(豊橋)城三の丸辺りといわれる。毎年3月14日に善導忌を勤め,あまねく僧俗を教導し,京都に上って参内し,勅願寺の綸旨(りんじ)を受け,祈祷料として60貫の寺領を賜った。
天正18(1590)年池田輝政が城域の拡張を計画,城外に移転した。慶長7(1602)年家康から朱印80石を受け,家康,秀忠,家光らが宿泊休息したと伝えられ,寛永13(1636)年をはじめ数回朝鮮使節の宿舎ともなった。元和年中に後水尾天皇に納豆を献上。「ひく汐に わたりかかれば 三河なる 浜名は落ちて ここは八橋」の御製を賜り「八橋納豆」の名の起源となる。
悟真寺は寺紋として「葵の紋所」を使用。知恩院の直末となったのは,元和元(1615)年で広く宗門の名僧を求め住持とし,後に芝の増上寺学寮中の秀僧を招請する習慣となり明治維新まで続けられた。悟真寺の本尊は,恵心僧都源信最後の作と伝えられる開山念持弥陀三尊立像で,享保6(1721)年新造の本尊阿弥陀如来坐像の胎内に納められている。
第2次世界大戦中,赤坂(宝飯郡音羽町)の長福寺に疎開し戦火を免れ現在本尊として安置されている。
「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,吉田方「寺地御城内,浄土宗,羽田村地内,孤峯山浄業院悟真寺,京都知恩院末寺,上人,客殿拾間九間,御朱印寺領八拾石目,塔頭西岸院,竜興院,樹松院,善忠院,専称軒,三昧院,全宗軒,法蔵院,西禅院,東高院,勢至軒,浄招院,竹意軒,〆拾三ヶ寺」とあり,「三河国二葉松」(元文5年)に,「城内,吉田,寺領八十石,浄土宗鎮西派,開山善忠上人,本寺京都知恩院,院号浄業院,孤峯山悟心寺」とある。
慶応4(1868)年三河裁判所が置かれ,明治6(1873)年には小学校の校舎に使用された。明治11(1878)年10月30日には明治天皇行幸の行在所となった。昭和11(1936)年国の史蹟「明治天皇豊橋行在所」に指定されたが,同23(48)年指定解除された。明治38(1905)年日露戦争の捕虜収容所となった。昭和20(1945)年6月の空襲により全山焼失した。昭和22(1947)年仮本堂,同36(61)年鉄筋コンクリートの本堂再建,同50(75)年書院庫裏(くり)が再建された。昭和23(1948)年月影保育園を開設。昭和29(1954)年悟真寺幼稚園と改め,同60(85)年学校法人悟真寺幼稚園として認可された。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
孤峰山悟真寺(浄土宗)の創立は,貞治5(1366)年で,開山は善忠寂翁上人である。善忠上人は浄土宗藤田派4代唱名上人の高弟,仏法を広めるため関東から三州今橋(豊橋)に来て奇瑞(きずい)があってその地に一寺を建立し,浄業院悟真寺と称した。建立地は現在の吉田(豊橋)城三の丸辺りといわれる。毎年3月14日に善導忌を勤め,あまねく僧俗を教導し,京都に上って参内し,勅願寺の綸旨(りんじ)を受け,祈祷料として60貫の寺領を賜った。
天正18(1590)年池田輝政が城域の拡張を計画,城外に移転した。慶長7(1602)年家康から朱印80石を受け,家康,秀忠,家光らが宿泊休息したと伝えられ,寛永13(1636)年をはじめ数回朝鮮使節の宿舎ともなった。元和年中に後水尾天皇に納豆を献上。「ひく汐に わたりかかれば 三河なる 浜名は落ちて ここは八橋」の御製を賜り「八橋納豆」の名の起源となる。
悟真寺は寺紋として「葵の紋所」を使用。知恩院の直末となったのは,元和元(1615)年で広く宗門の名僧を求め住持とし,後に芝の増上寺学寮中の秀僧を招請する習慣となり明治維新まで続けられた。悟真寺の本尊は,恵心僧都源信最後の作と伝えられる開山念持弥陀三尊立像で,享保6(1721)年新造の本尊阿弥陀如来坐像の胎内に納められている。
第2次世界大戦中,赤坂(宝飯郡音羽町)の長福寺に疎開し戦火を免れ現在本尊として安置されている。
「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,吉田方「寺地御城内,浄土宗,羽田村地内,孤峯山浄業院悟真寺,京都知恩院末寺,上人,客殿拾間九間,御朱印寺領八拾石目,塔頭西岸院,竜興院,樹松院,善忠院,専称軒,三昧院,全宗軒,法蔵院,西禅院,東高院,勢至軒,浄招院,竹意軒,〆拾三ヶ寺」とあり,「三河国二葉松」(元文5年)に,「城内,吉田,寺領八十石,浄土宗鎮西派,開山善忠上人,本寺京都知恩院,院号浄業院,孤峯山悟心寺」とある。
慶応4(1868)年三河裁判所が置かれ,明治6(1873)年には小学校の校舎に使用された。明治11(1878)年10月30日には明治天皇行幸の行在所となった。昭和11(1936)年国の史蹟「明治天皇豊橋行在所」に指定されたが,同23(48)年指定解除された。明治38(1905)年日露戦争の捕虜収容所となった。昭和20(1945)年6月の空襲により全山焼失した。昭和22(1947)年仮本堂,同36(61)年鉄筋コンクリートの本堂再建,同50(75)年書院庫裏(くり)が再建された。昭和23(1948)年月影保育園を開設。昭和29(1954)年悟真寺幼稚園と改め,同60(85)年学校法人悟真寺幼稚園として認可された。
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豊橋市議の長坂です。
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