いかりぶたい
怒部隊は,正式名称を第73師団,通称号を「怒」といった。怒部隊は昭和19(1944)年末ごろから,米軍の上陸が予想された豊橋の高師原・天伯原および浜名湖以西の海浜に陣地構築し,本土防衛の任についていた。第73師団は昭和19(1944)年7月,警備師団として名古屋で編成されたが,のち編制と装備が強化されて野戦師団となった。
第73師団は昭和20(1945)年2月,名古屋に第13方面軍(秀)が新設されると,高射砲第2師団(逐),独立戦車第8旅団(鋭敏),第153師団(護京),第229師団(北越)とともに秀部隊の隷下(れいか)に入った。逐部隊は名古屋の防空作戦,鋭敏部隊は豊橋(戦車第24聯隊)および浜松(戦車第23聯隊)方面の機動作戦,護京部隊は渥美半島および鳥羽地区の防衛,怒部隊は豊橋南東部の守備にあたった。
第73師団は,名古屋の歩兵第196聯隊,静岡の同第197聯隊,岐阜の同第198聯隊を中心に野砲兵・工兵・輜重(しちょう)兵の各73聯隊からなる約1万5000の兵団であった。部隊は,水際撃滅戦方針のもと,現地の兵営,公共建物を使用して,陣地構築,訓練に当たったが,将兵の多くは予備役兵や補充兵であり,その上指揮官が不足していた。また兵器・弾薬・糧秣(りょうまつ)なども極めて不十分であった。
昭和20(1945)年6月,特に静岡県の御前崎方面の防備を強化するため第54軍(颯・司令部は新城市)が設置され,隷下部隊として新たに,3個師団・3個独立混成旅団・1個野戦重砲兵聯隊・5個独立野砲兵大隊などが配備されることになったが,この時,秀部隊の直轄部隊であった怒部隊(司令部は豊川市国府町)は,適時・要所に出撃する“機動打撃兵団”となって,待機のため後方に移動を開始していた。昭和20(1945)年8月15日終戦とともに作戦任務を解かれ,兵器は米軍に,糧秣(りょうまつ)・資材などは各市町村に引き渡し,翌21(46)年3月までに全員無事復員した。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
怒部隊は,正式名称を第73師団,通称号を「怒」といった。怒部隊は昭和19(1944)年末ごろから,米軍の上陸が予想された豊橋の高師原・天伯原および浜名湖以西の海浜に陣地構築し,本土防衛の任についていた。第73師団は昭和19(1944)年7月,警備師団として名古屋で編成されたが,のち編制と装備が強化されて野戦師団となった。
第73師団は昭和20(1945)年2月,名古屋に第13方面軍(秀)が新設されると,高射砲第2師団(逐),独立戦車第8旅団(鋭敏),第153師団(護京),第229師団(北越)とともに秀部隊の隷下(れいか)に入った。逐部隊は名古屋の防空作戦,鋭敏部隊は豊橋(戦車第24聯隊)および浜松(戦車第23聯隊)方面の機動作戦,護京部隊は渥美半島および鳥羽地区の防衛,怒部隊は豊橋南東部の守備にあたった。
第73師団は,名古屋の歩兵第196聯隊,静岡の同第197聯隊,岐阜の同第198聯隊を中心に野砲兵・工兵・輜重(しちょう)兵の各73聯隊からなる約1万5000の兵団であった。部隊は,水際撃滅戦方針のもと,現地の兵営,公共建物を使用して,陣地構築,訓練に当たったが,将兵の多くは予備役兵や補充兵であり,その上指揮官が不足していた。また兵器・弾薬・糧秣(りょうまつ)なども極めて不十分であった。
昭和20(1945)年6月,特に静岡県の御前崎方面の防備を強化するため第54軍(颯・司令部は新城市)が設置され,隷下部隊として新たに,3個師団・3個独立混成旅団・1個野戦重砲兵聯隊・5個独立野砲兵大隊などが配備されることになったが,この時,秀部隊の直轄部隊であった怒部隊(司令部は豊川市国府町)は,適時・要所に出撃する“機動打撃兵団”となって,待機のため後方に移動を開始していた。昭和20(1945)年8月15日終戦とともに作戦任務を解かれ,兵器は米軍に,糧秣(りょうまつ)・資材などは各市町村に引き渡し,翌21(46)年3月までに全員無事復員した。
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豊橋市議の長坂です。
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